世の中には、デジタル機器が苦手な人がいます。
それ自体は何の問題もありません。
人には得意不得意があります。スマホの文字が小さくて見えにくい人もいるでしょう。新しい操作を覚えるのに時間がかかる人もいます。事情があって端末を持てない人もいます。
ところが世の中には、「苦手」という段階をはるかに超え、デジタルを思想的に拒絶する人がいます。
クレジットカードは危ない。
ネット銀行は危ない。
ネット通販は危ない。
QRコードは危ない。
スマホ決済は危ない。
モバイルオーダーは危ない。
投資信託は危ない。
飛行機も危ない。
ここまで来ると、慎重なのではありません。
世界のほぼ全部が危ない。
本人だけが安全です。
令和の貴族、降臨
このような人を、私は今後、敬意を込めてこう呼びたいと思います。
アナログ貴族。
アナログ貴族は、デジタル機器を使いません。
なぜなら危ないからです。
飲食店でQRコードを読み取って注文するなど、もってのほかです。
「私は、そのような怪しい紋様を読み取りません」
そこで店員を呼びます。
「そなた、口頭で注文を取りたまえ」
ファーストフード店ではモバイルオーダーを使いません。
長い列に並びます。
列の先では、店員が注文を聞き、レジを操作し、決済し、番号を発行します。
本来なら本人がスマホ上で済ませられた処理を、店員という人間が手作業で代行しています。
しかし、アナログ貴族には、代行させているという感覚がありません。
店員は最初から、そこに生えているからです。
使用人は各地に配置されている
アナログ貴族の領地は広大です。
銀行には銀行員という使用人がいます。
市役所には窓口職員という使用人がいます。
駅には駅員という使用人がいます。
旅行の際には、同行者という使用人がいます。
家庭内には、配偶者や子どもという専属使用人がいます。
オンライン予約が必要になれば、
「私はそういうものは分かりません」
と宣言します。
この一言で、予約業務は周囲へ移管されます。
電子チケットが必要になれば、
「私はスマホで券を出すなど無理です」
と宣言します。
すると誰かが購入し、画面を出し、入場口まで案内します。
クレジットカードが必要になれば、
「カードは危ないから持ちません」
と言います。
その直後、
「あなたのカードで取っておいて」
と言います。
これがアナログ貴族の優雅なところです。
自分はカード社会に屈していません。
カードを使う下々の者に、処理だけさせています。
デジタル社会から独立している、という壮大な勘違い
アナログ貴族は、自分の力と現金だけで生きていると思っています。
財布を開けば現金があります。
紙幣には、福沢諭吉や渋沢栄一が描かれています。
もちろん、思想家として敬愛しているわけではありません。
一万円札として敬愛しています。
現金は信用できる。
数字だけの残高は信用できない。
アプリのポイントも信用できない。
紙のポイントカードなら信用できる。
なぜなら、財布が物理的に膨らむからです。
しかし、その現金を引き出すATMはデジタルで動いています。
銀行間の送金もデジタルです。
店舗の在庫管理もデジタルです。
商品の発注も物流も配送管理もデジタルです。
電気、水道、道路、交通管制、金融決済、売上管理。
現代の生活は、本人の目に見えないところで動く膨大なデータ処理によって支えられています。
つまりアナログ貴族は、デジタル社会の外にいるのではありません。
完全にデジタル化された宮殿の中で、操作盤だけ使用人に触らせています。
「私は機械には触れません」
そう言いながら、床暖房の効いた部屋でくつろいでいるようなものです。
アーミッシュにはなれない
技術を制限する生き方として、アーミッシュを思い浮かべる人もいるでしょう。
しかし、アナログ貴族とアーミッシュはまったく違います。
本当に思想として技術を制限する人は、その不便や労力も自分たちで引き受けます。
生活上の制約も、選択の結果として背負います。
一方、アナログ貴族は違います。
「ネット通販は嫌いです。でも、その商品は欲しいです」
「電子チケットは嫌いです。でも、そのイベントには行きたいです」
「ネット銀行は嫌いです。でも、窓口は残してください」
「スマホ注文は嫌いです。でも、店員はすぐ来てください」
これは禁欲ではありません。
便利さは欲しいが、学習コストだけは払いたくない。
思想的拒絶ではなく、思想のいいとこ取りです。
信念というより、信念のサブスクリプションです。
しかも料金は他人が払います。
清潔な指先の道徳
アナログ貴族には、ひとつの美学があります。
自分の指先をデジタルで汚さないことです。
スマホでQRコードを読む。
アプリにログインする。
本人確認をする。
予約情報を入力する。
カード番号を登録する。
こうした面倒で、少し不安で、失敗の可能性もある実務は、すべて他人にやらせます。
その結果、本人の指先は清潔なままです。
「私は危険なものには手を出しません」
しかし実際には、危険なものに手を出していないのではありません。
他人の手を出させています。
本人が安心していられるのは、家族や店員や窓口職員が、入力、認証、確認、予約、決済という実務を引き受けているからです。
これは「清潔な手の道徳」とでも呼ぶべきでしょう。
私はやっていない。
私は登録していない。
私はカードを使っていない。
私はネットで注文していない。
ただし、商品は届きます。
チケットも取れています。
予約も済んでいます。
まるで魔法です。
もちろん魔法使いの正体は、家族です。
アナログ対応は無料ではない
紙の通帳、有人窓口、現金レジ。
これらは確かにアナログです。
ただ、窓口で紙を受け取った職員は、その後ろでパソコンに打ち込んでいます。
アナログ貴族は、デジタルを回避しているのではありません。
自分専用のデジタル入力係を、一人追加しているだけです。
「昔は普通にやってくれた」
と言います。
訳すと、
「人件費は永遠に誰かが払え」
という意味です。
配慮を爵位と勘違いする
もちろん、デジタル機器を使えない人への代替手段は必要です。
高齢者、障害のある人、経済的事情がある人、機器の扱いに困難を抱える人。
そうした人が社会から排除されないよう、有人窓口や別の手続き方法を残すことには意味があります。
しかし、ここで問題にしているのは、使えない人ではありません。
使おうとしない人です。
一度も試さず、
「私には無理です」
説明も聞かず、
「危ないです」
学ぶ機会があっても、
「私はそういうものは嫌いです」
そのうえで、代替手段を当然の権利として要求する。
社会が用意した配慮を、自分の爵位だと思っているわけです。
「私はアナログ侯爵である。窓口を開けよ」
困っている人への配慮と、学習拒否者への無制限奉仕は同じではありません。
使わない自由はあります。
しかし、その自由の維持費を他人へ請求する権利まではありません。
そして英才教育が始まる
問題は、アナログ貴族本人だけではありません。
小学校ではタブレットが配られます。
電子黒板を使います。
QRコードから教材を開きます。
学校からの連絡もアプリで届きます。
そんな時代に、家庭ではこう教えられます。
「ネットは危ない」
「QRコードは危ない」
「カードは危ない」
「スマホでお金を払うのは危ない」
これはデジタル教育ではありません。
デジタル恐怖症の英才教育です。
子どもは学校でタブレットを使いながら、家ではそれを危険物として扱うことになります。
母親の言うことを守れば、学校や社会に適応できない。
社会に適応すれば、母親の世界観を裏切る。
なかなか高度な二重拘束です。
しかも将来、その子がデジタルに詳しくなれば、家庭内専属IT担当者に任命される可能性があります。
「これ予約して」
「この画面、何を押せばいいの」
「代わりに払って」
「危ないから、あなたのカードを使って」
英才教育の最終目的は、子どもをデジタルから守ることではありません。
将来の使用人を自家育成することだったのです。
所長の判定
ここまで考えていると、机の横で所長がこちらを見ていました。
クリーム色のチワワです。
所長はスマホを使いません。
QRコードも読みません。
クレジットカードも持っていません。
ネット銀行にも口座がありません。
しかし所長は、自分でできないことを思想に格上げしません。
「私は危険を見抜いている」
などとも言いません。
おやつの注文を人間に任せていることも、たぶん理解しています。
そして、おやつが届けば、それなりに感謝した顔をします。
この点において、所長はアナログ貴族よりはるかに高潔です。
アナログな暮らしを選ぶ自由はあります。
紙が好きでも、現金が好きでも構いません。
しかし、本当にその生き方を選ぶなら、不便も時間もコストも自分で引き受けるべきです。
本人が守っているのは、アナログな生活なのか。
それとも、本人の視界からデジタル実務だけを消した、使用人付きのデジタル生活なのか。
そこは、きちんと見分けた方がよいでしょう。
アナログ貴族は今日も言います。
「私は、そういうものは使いません」
そして周囲を見渡します。
誰かが代わりに使ってくれるのを待ちながら。
本ブログでは、日常やビジネスに潜む構造を観察しています。これらの思考の土台となった、実際の紛争における人間観察と実務の全記録は、noteに収録しています。事象を抽象化し、構造として捉えるための参考資料としてご活用ください。

コメント