監査は怖かった
銀行員だった頃、監査は怖いものでした。
規程に違反していないか。判断の根拠は十分か。後から説明できる記録が残っているか。
監査で指摘を受けるのは、できれば避けたい。
だから、普段から事務処理に注意する。稟議書の内容を確認する。判断の根拠を残す。
恐怖が仕事に影響していたことは、否定しません。
監査には、不正や誤りを抑止する機能があります。指摘されることへの恐怖が、その抑止に役立つ場合もあるでしょう。
しかし、監査の正当性は、怖いから生まれるわけではありません。
判断の基準となる法令や規程があり、業務を執行する部門とは独立した立場で検証する。指摘には根拠が求められ、その判断自体も検証の対象になります。
もちろん、監査担当者だって間違えることはあります。
だからこそ、判断する側の権限にも制約が必要なのです。
もし監査担当者が、自分の考える「必要な恐怖」を銀行員に与えるために、自由に基準を決められるとしたらどうでしょう。
それは、ずいぶん恐ろしい制度です。
恐怖を感じること自体が問題なのではありません。
誰が、何を根拠に、その恐怖を正当化しているのか。
ここが重要なのだと思います。
ところが、世の中には、恐怖を経営に積極的に利用しようという考え方があります。
しかも、恐怖に「必要」という名前を付けています。
この二文字が、私はどうにも気になります。
恐怖に「必要」という名前を付ける
2023年1月13日、株式会社識学は「ツギノジダイ」に「組織マネジメントに『必要な恐怖』とは パワハラとの違いも解説」という記事を掲載しました。
そこでは、組織運営に必要な恐怖と不必要な恐怖を区別しています。
必要な恐怖は、評価者の求めることができていないこと、時間を無駄にしていること、変化していないことへの恐怖です。
さらに、経営者は従業員が必要な恐怖を感じて仕事に取り組むよう、目標設定や評価制度を整えるべきだと説明しています。
識学は、怒鳴ったり、人格を否定したりすることを推奨しているわけではありません。むしろ、それらは不適切な恐怖を生むとして否定しています。
そこは正確に理解しておきたいところです。
しかし、同じ記事には、さらに興味深い説明があります。
夢や希望だけでは、従業員が自分の判断で仕事をやめたり、妥協したりする可能性がある。しかし、仕事をしなかった場合の未来に恐怖を感じれば、「やらない」という選択肢は存在しなくなるというのです。
なるほど。
これで、恐怖という言葉を使う意図が少し見えてきます。
従業員に責任感を持ってもらうことと、従業員が仕事をしないという選択肢を恐怖によって消すこと。
この二つは同じでしょうか。
私は違うと思います。
人間が自分の責任を理解して行動することと、不利益を恐れて行動することは、外からは似て見えるかもしれません。
しかし、その内側で起きていることは違います。
従業員が自分で判断して行動するのか。判断の余地を恐怖によって狭められて行動するのか。
その違いを、経営者はどこまで意識しているのでしょうか。
徳という名の恐怖
少し時代を遡ります。
1794年2月5日、フランス革命期のロベスピエールは、国民公会で政治道徳について演説しました。
その中に、よく知られた一節があります。
「徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき徳は無力である」
ロベスピエールは、革命期の共和国を守るには徳と恐怖の双方が必要だと論じました。
さらに、恐怖を迅速で厳格な正義の実行と位置づけ、それが徳から生まれるものだと説明しています。
ここで注意したいのは、彼が恐怖を無条件に肯定したわけではないことです。
徳という条件を付けています。
徳に裏打ちされた恐怖なら、正当化できる。
しかし、問題があります。
その徳は、誰が判定するのでしょうか。
恐怖を行使する人間が、自分には徳があると信じていたら。
そして、自分に反対する人間には徳がないと判断したら。
徳という条件は、恐怖を制限するものではなく、恐怖を正当化するものになります。
私は正しい。
だから、私が行うことも正しい。
この循環を、いったい誰が止めるのでしょう。
ロベスピエール自身も、1794年7月のテルミドールの政変で失脚し、28日にギロチンで処刑されました。
徳を語って恐怖を正当化した人間が、最後には自分自身も恐怖政治の刃の下に立たされたのです。
「必要」は、徳よりも合理的に聞こえる
私は、むしろ「必要」という言葉の方が厄介だと思います。
徳と言われれば、思想や価値観の話だと分かります。
しかし、必要と言われると、何か客観的な根拠があるように聞こえる。
「必要な改革です」
「必要な犠牲です」
「必要な痛みです」
そう言われると、反対する側がわがままを言っているように見えることさえあります。
しかし、必要とは、本来それだけで成立する言葉ではありません。
何のために必要なのか。
誰にとって必要なのか。
ほかに方法はないのか。
その目的自体は正当なのか。
これらを検討しない限り、必要性は証明されません。
ところが、「必要な恐怖」という言葉には、最初から答えが入っています。
必要なのだ、と。
まだ検証していないことを、名前の中で結論にしてしまっている。
しかも、その言葉を選んでいるのは、恐怖を感じる側ではありません。
恐怖を利用しようとする側です。
恐怖を感じさせたい人が、その恐怖を必要だと認定する。
そして、恐怖を感じる人に対して、必要なことだから受け入れなさいと説明する。
これでは、必要性の判断が独立していません。
冒頭の銀行監査とは、決定的に違うところです。
監査では、判断の基準も、監査する側の権限も、法令や規程によって制約されています。
しかし、管理者が自分の判断で部下に必要な恐怖を与え、その必要性まで自分で認定するなら、誰がその判断を検証するのでしょうか。
「やらない」が消えた先に
まず、恐怖を管理に利用することには、経営上の問題があります。
恐怖を感じる人間は、必ずしも仕事をしなくなるわけではありません。
むしろ、一生懸命働くことがあります。
しかし、恐怖が人を動かすとしても、その人が正しい方向へ動くとは限りません。
米国の大手銀行、ウェルズ・ファーゴで起きた不正が、その一例です。
2016年9月、米消費者金融保護局(CFPB)は、同行の従業員が営業目標の達成や報酬を得るため、顧客の同意を得ずに預金口座やクレジットカード口座を開設していた問題について、行政処分を行いました。
2017年に公表された同行の独立取締役による調査報告書は、2004年8月に同行の内部調査部門が作成した報告書を紹介しています。
そこには、営業目標を達成できずに職を失うことへの恐怖が、不正に走る誘因となっていたことが記されていました。
つまり、問題が大きく表面化する十年以上も前から、同行の内部では恐怖と不正の関係が指摘されていたのです。
営業目標は達成しなければならない。
しかし、顧客が商品を申し込んでくれるとは限りません。
そこで、顧客が申し込んだことにして、口座を開設してしまう。
恐怖によって「やらない」という選択肢を消したとしても、それで正しい行動だけが残るとは限りません。
「やらない」を消しても、「やったことにする」は消えない。
ここで問題にしているのは、恐怖を与えれば、人間が望ましい方向へ動くという発想です。
人間は、与えられた恐怖に機械的に反応する存在ではありません。
自分の立場を守ろうとし、相手の意図を読み、別の方法を考える。
恐怖によって人を動かすことに成功しても、望ましい結果になるとは限らないのです。
しかし、問題はそれだけではありません。
仮に恐怖による管理がうまくいったとしても、それは許されるのでしょうか。
結果が出ても、許されるのか
ここで、少し意地の悪い仮定を置いてみます。
恐怖を利用した経営によって、生産性が30%向上したとしましょう。
売上も利益も増えた。
不正も発生しない。
離職率まで下がった。
では、その経営手法は正しいのでしょうか。
経営上の成果という意味では、成功したと言えるかもしれません。
しかし、私はそれだけで正しいとは思いません。
なぜなら、有効であることと、許されることは別だからです。
人間の恐怖を研究することはできます。
恐怖によって行動がどう変わるのかを観察し、検証することもできます。
それは科学の仕事です。
しかし、その知見を利用して、他人の恐怖を意図的に操作してよいかどうかは、科学だけでは決まりません。
そこには倫理の問題があります。
経営者には業務を指示する権限があります。評価する権限もあります。
しかし、だからといって、従業員の感情まで自由に操作してよいわけではありません。
役職上の上下関係は、人間としての上下関係ではないからです。
部下も、上司と同じように考え、悩み、疑い、自分の意思を持つ人間です。
管理する側が「こうすれば怖がるだろう」「こうすれば言うことを聞くだろう」と考え始めたとき、その相手は、いつの間にか操作対象になっています。
結果として相手がよく働くようになったとしても、そのことは、相手を操作対象として扱った事実を消してくれません。
成果が出たからよい。
本人のためになったからよい。
組織のために必要だったからよい。
それでは、他人の意思や感情を尊重するという、人と人との関係における当たり前の敬意が、成果の後ろに追いやられてしまいます。
人間を動かせたことは、その人間を動かしてよかったことの証明にはなりません。
恐怖を正当化する言葉
恐怖を利用する行為は、ときに立派な目的とともに語られます。
組織のため。
顧客のため。
社会のため。
いずれも、大切な目的です。
しかし、その目的が正しいからといって、そこへ至る手段まで自動的に正当化されるわけではありません。
むしろ、立派な目的ほど注意が必要です。
「組織のため」と言われれば、反対する人間は組織に非協力的な存在に見える。
「顧客のため」と言われれば、疑問を唱える人間は顧客を軽視しているように見える。
恐怖に抵抗することが、正しい目的に抵抗することへとすり替えられる。
そして、もっと厄介なのは、恐怖を利用する側が、自分の正しさを心から信じている場合です。
悪意があるから危険なのではありません。
自分は正しいことをしている。組織のために必要なことをしている。
そう信じているからこそ、相手が苦痛を感じていても、それは必要な過程なのだと説明できてしまう。
しかし、その確信自体は、正しさの証拠ではありません。
まして、他人の恐怖を利用する資格の証明でもありません。
必要なのは、誰の恐怖か
私は、恐怖のない職場を求めているわけではありません。
仕事には責任があります。
判断を誤れば、叱責や処分を受けることもあるでしょう。
それを怖いと感じるのは、人間として自然なことです。
しかし、その恐怖を見つけた管理者が、「これは使える」と考えたらどうでしょう。
そこから先は、もう別の話です。
「公正な評価制度のもとで、従業員が不利益を避けようと努力しているだけだ。それの何が悪いのか」
そう言われるかもしれません。
評価が下がれば処遇が変わる。それを正直に伝えることは、悪いことではありません。
しかし、公正な評価制度の話なら、それを恐怖と呼ぶ必要はないはずです。
わざわざ恐怖と呼び、しかも必要だと名付けた時点で、設計しようとしているのは制度だけではありません。
相手の感情まで、管理の対象にしているのです。
そして、その制度が公正かどうかを、誰が確かめたのでしょうか。
相手の感情を理解することと、相手の感情を利用することは違います。
恐怖を感じている人間を尊重することと、恐怖を感じさせて従わせることも違います。
私は、管理者が恐怖を利用しようとする前に、考えるべきことがあると思います。
相手は、自分と同じ一人の人間だということです。
自分と同じように、判断を誤ることもある。
自分と同じように、理不尽な扱いには腹を立てる。
自分と同じように、他人から操作されることを嫌う。
そんな当たり前のことを忘れてまで、人間を動かす技術を磨く必要があるのでしょうか。
「必要な恐怖」。
この言葉の最も怖いところは、恐怖そのものではありません。
それを必要だと言い切れる人間が、そこにいることです。
その人は、自分が恐怖を感じる側ではなく、恐怖を利用する側に立っています。
だからこそ、最後に一つ、尋ねてみたいのです。
あなたが必要だと言う恐怖を、なぜ他人が引き受けなければならないのですか。
参考資料
株式会社識学「組織マネジメントに『必要な恐怖』とは パワハラとの違いも解説」(ツギノジダイ、2023年1月13日)
米消費者金融保護局(CFPB)Wells Fargo Bank に対する行政処分(2016年9月)
Wells Fargo 独立取締役による販売慣行調査報告書(2017年4月、SEC提出資料)
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