世の中には、「経営者の習慣」風の記事があります。
数字を見よう。月次を確認しよう。先月の利益を即答できるようにしよう。感覚経営から抜け出そう。
言っていることは、たぶん間違っていません。むしろ大事です。経営者が自社の数字を見ないのは危険です。売上、利益、経費、資金繰り。このあたりを見ずに経営するのは、たしかに怖い。
ただ、この手の記事を読んでいると、こちらの中に、少し冷えた声が立ち上がることがあります。
はい、はい。数字を見るのは大事ですね。
という声です。
数字を見ること自体を否定したいわけではありません。問題は、経営者が月次の数字を見るという、かなり基本的な話が、まるで経営の奥義のように語られていることです。
歯を磨く。手を洗う。月次を見る。
どれも大切です。しかし、歯を磨いていることをもって「私は人間としてかなり高みに到達しました」と言われると、少し困ります。それは経営の頂上なのか、それとも入口の靴箱なのか。
なお、当研究所には所長がいます。クリーム色のチワワです。
所長は、月次決算をしません。予算実績管理表も作りません。なんちゃらシートも持っていません。ただし、おやつの在庫状況については、かなり厳しく見ています。資金繰りならぬ「おやつ繰り」には非常に敏感です。在庫が減ると視線が鋭くなり、補充が遅れると前足が出ます。経営者としての素質があるのかもしれません。
数字を見ることと、組織を見ることは違う
経営者が数字を見ることは大事です。銀行や会計事務所の現場を少しでも知っていれば、月次を見ることの重要性は分かります。
ただ、数字を見ることと、経営が分かることは同じではありません。
数字は、組織の状態を映します。しかし、数字そのものが組織を動かすわけではありません。
売上が落ちている。利益率が下がっている。現預金が減っている。それは分かる。では、なぜそうなったのか。誰が、どこで、どう動いた結果なのか。その数字の背後で、どんな協働が成立し、あるいは壊れていたのか。
ここまで見なければ、数字はただの計器です。計器を見ることは大事ですが、計器を見ているだけで飛行機が目的地に着くわけではありません。
月次の利益を即答できる経営者は、たしかに数字を見ている人です。しかし、それだけで組織を見ていることにはなりません。
ここで、私はどうしてもチェスター・バーナードを思い出します。数字だけでは見えないものを、バーナードは見ていたのではないか、と思うのです。
バーナードを、かなり不純な動機で読んでいた
こう書くと、まるで私が若いころから経営学の古典を深く読み込んでいたように見えるかもしれません。残念ながら、そうではありません。
私はバーナードを、かなり不純な動機で読んでいました。
仕事でやる気が出ない日。会社の方針にどうにも乗れない日。自分の中で、貢献意欲らしきものが行方不明になる日。そういう日に、私はバーナードを思い出していました。
これは私が怠けているのではない。会社と私のあいだに、共通目的が成立していないだけである。貢献意欲が湧かないのは、私の人格の問題ではない。誘因と貢献の均衡が崩れているからである。コミュニケーションが十分でなければ、協働体系は維持されないのである。
なかなか立派な言い訳です。普通なら「今日はちょっとやる気が出ません」で済む話を、私は経営学の古典を使って、かなり格調高く正当化していました。バーナード先生には、ずいぶん都合のよい弁護人になっていただいたものです。
所長は、そういう小細工をしません。おやつがほしい。眠い。散歩は気分次第。病院は嫌。目的が明確です。共通目的の形成など、最初から考えていません。その潔さには、学ぶべきものがあります。
組織は、ただ人が集まれば成立するわけではない
バーナードの組織論で有名なのが、組織存続の三要素です。大ざっぱに言えば、組織が存続するには、共通目的、貢献意欲、コミュニケーションの三つが必要になります。
人が集まっているだけでは、組織にはなりません。
同じ会社にいる。同じ建物にいる。同じ朝礼に出ている。それだけでは、まだ協働体系としては弱い。そこに共有された目的があり、その目的に向けて人々が何らかの貢献をしようとし、そのためのコミュニケーションが成立している。そうして初めて、組織は動きます。
ここが、バーナードの面白いところです。組織を、単なる命令系統としても、規則の束としても、まして経営者が月次を見れば自動的に動く機械としても見ていない。組織とは、人間たちの協働の仕組みです。そして人間は、放っておけば自然に同じ方向を向く存在ではありません。
会社の目的と、個人の目的は、たいていズレている
会社はよく言います。同じ方向を向こう。一丸となろう。経営者目線を持とう。
言葉としては、きれいです。しかし実際には、会社の目的と個人の目的はかなりズレています。
会社は利益を出したい。個人は生活を守りたい。会社は成長したい。個人は疲弊したくない。会社は効率化したい。個人は自分の仕事が消えることを恐れる。
もちろん、会社の目的が悪で個人の目的が善だという話ではありません。会社が存続しなければ雇用も守られない。組織目的は必要です。ただし、個人もまた、組織のためだけに存在しているわけではありません。
このズレを無視して「もっと貢献しろ」「もっと主体的に動け」と言われても、人はそう簡単には動きません。
共通目的は、スローガンでは成立しません。朝礼で唱和しても、壁に貼っても成立しません。それが個人にとっても、ある程度受け入れ可能なものでなければならない。自分の貢献が、単なる消耗ではなく、何らかの意味や誘因につながっていると感じられなければならない。
ここが抜け落ちると、組織は見た目だけは動いていても、中身は少しずつ空洞化していきます。余白ではありません。空洞です。
「貢献しろ」と言うなら、誘因も必要である
組織は、個人に貢献を求めます。時間を差し出せ。労力を差し出せ。責任を引き受けろ。目標を達成しろ。
それ自体は、組織で働く以上、当然の要求です。組織は慈善団体ではありません。会社であれば、利益を出さなければ存続できない。だから、貢献は必要です。
しかし、個人が貢献し続けるためには、誘因が必要です。誘因とは、給料だけではありません。報酬、承認、納得感、安心感、成長機会、仕事に意味を感じられること、組織から大切に扱われているという感覚。こうしたものがなければ、人は貢献し続けられません。
逆に、誘因が乏しいまま貢献だけを求められると、人は冷めていきます。表面上は働く。会議にも出る。最低限の仕事もする。しかし、心のどこかで思い始めます。これ以上、差し出す理由がない、と。
これは怠慢なのでしょうか。根性不足なのでしょうか。そういう場合もあるでしょう。しかしバーナード的に見るなら、それだけではありません。組織が提示している誘因が、個人の貢献意欲を維持する水準に達していないのかもしれない。
つまり、「やる気がない社員」の問題に見えるものは、組織存続の条件が揺らいでいるサインかもしれない。バーナードは、人間のやる気を根性論で片づけず、組織の構造の中で考えます。だから私は、仕事をサボりたい日に、やたらとお世話になっていたわけです。都合のいい読み方です。ただ、都合がいいからといって、完全に間違っているわけでもない。ここが古典の怖いところです。
所長は、共通目的を形成しない
ここで、所長の話に戻ります。
所長は、共通目的を形成しません。飼い主が「今日は静かに過ごしたい」と思っていても、おやつがほしければ前足を乗せてくる。「早く寝たい」と思っていても、気分次第で活動を開始する。「病院に行きましょう」と言っても、その目的を共有しない。組織論的には、かなり難しい相手です。
しかし、所長には明確な強みがあります。目的が曖昧ではない。おやつ。安心。眠り。散歩。できれば病院回避。非常に具体的です。
そこには、美談がありません。GIVEの精神もありません。悲劇のヒーロー設定もありません。しかし、中身があります。
所長は、自分の目的を大きく見せません。「私は飼い主に癒やしを提供することで、信頼資産を積み上げています」などとは言わない。黙って座る。こちらを見る。必要なら、前足を少しだけ膝に乗せる。それで十分です。
中身があるものは、話を大きくしなくても伝わります。
組織目的、個人目的、そして社会目的
バーナードを今読むと、もう一つ感じることがあります。彼の組織観には、組織目的、個人目的、そして社会目的のようなものが、同時に立っているということです。
組織には目的がある。個人にも目的がある。そして組織は、社会の中で存在する以上、社会的な正当性も問われる。この三つは、きれいに重なりません。
会社は成長したい。個人は消耗したくない。社会は、その成長が誰かの犠牲の上に成り立っていないかを見る。
ここを見ないまま「会社のために頑張ろう」「自分らしく働こう」「社会に貢献しよう」と並べるだけなら、きれいな言葉は作れます。しかし、きれいな言葉が三つ並んだからといって、三つの目的が調和するわけではありません。
このどれか一つだけを絶対化すると、組織は歪みます。組織目的だけを押し出せば、個人は消耗する。個人目的だけを押し出せば、組織はばらばらになる。社会目的を飾り言葉にすれば、ただのイメージ戦略になる。
バーナードの面白さは、組織をこの緊張関係の中で見ているところにあります。人は組織の部品ではない。しかし、個人の集合だけでも組織にはならない。そして組織は、社会の中で存在する以上、自分たちだけの論理で完結することもできない。このあたりを、精神論ではなく構造として見ようとしたところに、古典としての強さがあります。
まとめ:所長は働かないが、目的は明確である
当研究所としては、最後にこう整理しておきます。
月次を見ることと、経営を分かることは違う。スローガンと、共通目的は違う。貢献要求と、貢献意欲は違う。余白と空洞が違うように、数字と組織も違う。
組織を見るには、人がなぜ貢献するのか、そしてなぜ貢献しなくなるのかを考える必要があります。それは、根性論だけでも、美談だけでも、毎月の数字だけでも見えません。
数字の背後に、人がいる。人の背後に、目的がある。目的の背後に、誘因がある。そして、それらをつなぐコミュニケーションがある。この全体を見ようとしたところに、バーナードの強さがあります。
かつて私は、仕事をサボりたい日に、バーナードをずいぶん都合よく使っていました。共通目的が成立していない。誘因が不足している。そうやって、自分のやる気のなさを古典で立派に飾っていた。ただ、今になって思います。その都合のよさの中にも、組織で働く人間の本音があったのではないか、と。
所長は、今日も黙っています。こちらを見て、前足を少しだけ膝に乗せています。おやつがほしいのです。そこに組織目的も社会目的もありません。ただし、個人目的は非常に明確です。そして飼い主はその目的を理解し、所長も飼い主が理解していることを理解している。これは、ある意味でコミュニケーションが成立している状態です。
問題は、その後です。おやつを出すか、出さないか。ここで、貢献と誘因の均衡が問われます。所長は日々、癒やしという貢献をし、その誘因としておやつを要求している。バーナード的に見ると、意外と筋が通っているのかもしれません。
ただし、所長はおやつを受け取ったあと、すぐ寝ます。組織貢献の継続性には、若干の課題が残ります。
それでも、中身があるものは、話を大きくしなくても伝わる。おやつがほしい。それだけで十分です。
このブログ「Kazc’s Laboratory」では、身のまわりの出来事を、経営学・ゲーム理論・法律といった道具で観察しています。所長はクリーム色のチワワです。
こうした見方の“元ネタ”になったのが、私が実際に経験した裁判です。その全記録――本物の準備書面や答弁書つき――は、note『裁判闘争記』にまとめています(一部有料)。原理はこのブログで、実戦はあちらで。

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