アパートを建てたくない人に、アパートを売る
銀行員だった頃、アパート建築の融資案件を数多く扱いました。
市街地に農地を持つ高齢の農家さんです。先祖代々の土地で農業を続けてきた、ごく普通の人たちでした。
ところが、土地の相続税評価額を計算すると、思いがけない金額になる。
「うちとこ、そんな金持ちちゃうで」
そう言われても、税務上の評価額は別の話です。
そこへ建設業者がやってきます。相続税対策として、農地にアパートを建てませんか、と。
建築費は1億円を超えることもあります。息子たちは会社員で、農業を継ぐつもりもありません。それどころか、アパート経営だってやりたくない。
しかし、土地を残すために借金をする。
銀行としてはありがたい融資案件です。建設業者にとっては、もっとありがたい建築案件でしょう。
銀行は収益性を審査します。私がいた銀行では、楽観、通常、ストレスという複数のシナリオで事業収支を検証していました。
一方、建設業者が顧客に提示する収支計画は、私が見た限り、ずいぶん楽観的なものが目立ちました。
融資審査で難色を示すと、業者の方が必死になります。建築価格の値下げや、自己資金の投入額を増やした計画を持ち込んでくる。
本人も家族も、巨額の借金に不安を感じている。
しかし、業者は何としても契約を成立させたい。
一体、誰のためのアパート建築なのでしょうか。
報酬が人を動かす
建設業者の営業担当者には、契約を獲得する強い動機があります。
高額な成果報酬が用意されている場合、契約の成立は担当者自身の収入に直結します。
一方、完成したアパートが20年後、30年後にも十分な収益を生んでいるかどうかは、通常、その担当者の報酬に直接反映されません。
契約時点の利益と、その後の経営リスクを負担する人が違うのです。
ここには、売り手と買い手の利益相反や、情報の非対称性があります。
収益計画を作る業者の方が、建築費や賃貸経営について多くの情報を持っています。農業一筋で生きてきた人が、その説明を頼りに投資判断をするのも不思議ではありません。
成果報酬そのものが悪いわけではありません。
問題は、何を成果として評価するかです。
契約件数を評価すれば、契約件数を増やそうとする。契約金額を評価すれば、契約金額を増やそうとする。
ごく当たり前のことです。
しかし、顧客にとって必要だったか、長期的に利益をもたらしたかという点が評価から抜け落ちれば、販売者と顧客の利益は一致しなくなります。
監督する人まで、営業成績で評価される
2026年10月9日、金融庁はプルデンシャル生命保険とジブラルタ生命保険に対して、業務停止命令などの行政処分を行いました。
両社では、営業職員による金銭関連の不祥事が多数発覚していました。プルデンシャル生命では、保険業務に関連しない投資商品の勧誘なども問題になっています。
金融庁は、営業成績に強く連動する報酬制度や、優績者を過度に重んじる組織風土などを問題視しています。
特に興味深いのは、ジブラルタ生命への指摘です。
営業職員を指導・監督する管理職の報酬や評価が、営業職員の採用実績や営業成績に大きく依存していました。
そのため、営業職員への忖度が働き、実質的な管理が行われていなかったというのです。
これは重要です。
営業職員の成績が上がれば、自分の評価も上がる。
しかし、不適切な営業活動を見つけて是正すれば、営業成績が下がるかもしれない。
そういう仕組みの中で、管理職はどちらを選びやすくなるでしょうか。
本来、営業活動を監督するために存在する人が、監督すべき相手の成績に経済的に依存している。
アクセルを踏む人と、ブレーキを踏む人を、同じアクセルの踏み具合で評価していたわけです。
これでは、ブレーキが利かなくなっても不思議ではありません。
恐怖も人を動かす
報酬とは反対に見えるものですが、人間を動かすもう一つの強力な要因があります。
恐怖です。
目標を達成できなければ評価が下がる。降格されるかもしれない。場合によっては職を失うかもしれない。
そうした恐怖が人間の行動を変えることは、十分に考えられます。
ビッグモーターの保険金不正請求問題を思い出してください。
同社では、車体に故意に傷をつけるなどして、保険金を不正に請求する行為が確認されました。
2024年3月、国土交通省が公表した「ビッグモーターの本社に関して確認された問題」では、降格人事の頻発や、利益追求の企業風土に根ざした業績目標と給与体系が指摘されています。
経常利益と連動した降格ルールまで存在していました。
数字を達成できなければ降格される。
では、数字を達成するためにはどうするか。
不正に走らず努力する人もいるでしょう。しかし、無理な目標と厳しい処遇が結びつけば、数字を作ること自体が目的になる危険があります。
恐怖は、人を怠けさせるとは限りません。
むしろ、必死に働かせることがあります。
数字を達成するために知恵を絞る。工夫する。努力する。
そして、ときには不正まで行う。
恐怖は人を動かします。しかし、正しい方向に動かすとは限りません。
ここで、識学が登場する
さて、ここまで考えていて、ある経営理論を思い出しました。
識学です。
ここまでに挙げた企業が識学を導入していたという話ではありません。
私が考えたいのは、恐怖という人間の行動原理を、経営理論がどう扱っているのかという問題です。
識学は、人間の意識構造を「位置・結果・変化・恐怖・目標」という五つの領域で説明しています。
その中で、必要な恐怖と不必要な恐怖を区別しています。
2023年1月13日付の「ツギノジダイ」に掲載された株式会社識学の解説「組織マネジメントに『必要な恐怖』とは パワハラとの違いも解説」では、必要な恐怖として、次の三つを挙げています。
評価者の求めることが分かっていない、できていない
時間を無駄にしている
変化していない
同じ解説によれば、ここでいう恐怖は、上司が感情的に怒鳴りつけたり、理由も分からず部下を威圧したりすることではありません。
目標未達によって評価が下がることを認識し、改善に向けて行動する。そうした危機感を適切に持たせるという考え方です。
なるほど。
人は不利益を避けようとしますし、評価基準を明確にすれば、自分が何をすべきか理解しやすくなるでしょう。
ここまでは理解できます。
しかし、問題があります。
評価基準そのものが間違っていたら、どうなるのでしょうか。
売上目標が不適切だったら。
収益性の低い商品を販売するほど高く評価される仕組みだったら。
あるいは、上司の指示そのものに問題があったら。
評価基準が明確であればあるほど、間違った方向へ一生懸命に走る可能性さえあります。
では、識学のいう「必要な恐怖」は、何のために必要なのか。それを誰が判断するのでしょう。
「組織の目標を達成するために必要だから」では、十分な答えになりません。
問題にしているのは、その目標自体が適切なのかということだからです。
誰が、何を恐れるべきなのか
ここで、銀行の融資審査に戻ります。
アパート建設業者の営業担当者は、契約が取れず評価が下がることを恐れるかもしれません。
銀行の審査担当者は、返済能力の乏しい相手に融資して、貸倒れを発生させることを恐れるかもしれません。
そして顧客は、億単位の借金を返済できなくなることを恐れています。
全員が恐怖を感じています。
しかし、その恐怖が促す行動は違います。
営業担当者は契約を成立させようとする。審査担当者は融資を慎重に判断する。顧客は借金を避けようとする。
銀行の審査部門が営業部門に対する牽制機能を持つのは、両者に求められる役割が違うからです。
その審査部門まで融資実行額を優先して評価されるようになれば、牽制機能は弱まるでしょう。
しかし、反対に貸倒れを過度に恐れれば、本来融資すべき案件まで断るかもしれません。
貸倒れを発生させないことだけを目標にするなら、融資をしないのが一番確実です。
銀行としては、それでは商売になりません。
結局、重要なのは恐怖そのものではありません。
何を恐れ、何を守り、何を成果として評価するのか。
さらに言えば、その評価基準が適切なのかを、誰が検証するのか。
そこまで設計しなければ、恐怖によって人を動かすことが、組織にとって望ましい結果につながるとは限りません。
恐怖によって、何が言えなくなるのか
先ほどの金融庁の処分理由には、もう一つ印象的な記述があります。
プルデンシャル生命では、営業推進を優先した経営陣の姿勢が、営業第一線に対して本社・本部が「物が言えない」「支社任せ」の企業風土を助長したというのです。
数字を稼ぐ営業現場に、本社が物を言えない。
成果を出している相手には、問題があっても強く言えない。
これは、恐怖が部下だけに働くわけではないことを示しています。
経営陣だって、営業成績が下がることを恐れます。
優秀な営業職員が辞めることを恐れます。
そして、その恐怖が必要な改革を先送りさせることもある。
組織の中で恐怖が生まれること自体は、避けられないかもしれません。
しかし、恐怖があるからこそ、言わなければならないことがあります。
「この数字はおかしいのではありませんか」
「この契約は、お客さんに不利益になると思います」
「この目標は、現実的ではありません」
こうした発言ができなくなったとき、組織の牽制機能は失われていきます。
疑念は、ノイズか警報か
識学は、評価者の求めることができていないという恐怖を必要なものと位置づけています。
では、評価者の求めること自体がおかしいと感じた場合、その疑問はどう扱われるのでしょう。
同じ解説では、「不必要な恐怖」の一つとして「疑念」を挙げています。今やっていることが正しいのかと悩み、仕事に集中できなくなる状態です。
そして、部下が疑念を抱いたら上司に確認させる一方で、上司の説明に部下が納得することまでは求めない、としています。
もちろん、疑問を抱いて立ち止まることと、根拠を持って異議を申し立てることは別です。
疑念によって仕事が止まることと、疑念によって組織の誤りが発見されること。この二つを、どう区別するのか。
その見分けを上司の説明に委ねるなら、上司自身が誤った目標を正しいと信じていたとき、部下の疑念はどちらに分類されるのでしょう。
ここで問われているのは、部下の理解力ではありません。
目標を設定する側の誤りを、組織がどうやって発見し、修正するのかという問題です。
目標を達成できないことは恐れる。しかし、目標のために間違ったことをするのは恐れない。
そんな組織になってしまったら、何のための経営管理なのでしょうか。
橋は、まだ架かっていない
恐怖が人間の行動に影響することは否定しません。
成果に応じて適切に評価することも必要でしょう。
しかし、恐怖によって行動量が増えることと、その行動が組織や顧客に利益をもたらすことは、同じではありません。
その二つを結びつけるには、何を評価し、誰が判断し、間違った目標をどう修正するのかという仕組みが必要です。
そして、その仕組み自体が機能しているかを、誰かが確かめなければなりません。
「人は恐怖で動く」
ええ、そのとおりでしょう。
しかし、だからといって、恐怖を経営に利用すれば組織がよくなるとは限りません。
その結論に到達するには、まだ証明しなければならないことがあります。
橋は、まだ架かっていません。
しかも、その橋を渡るのは経営者だけではありません。
従業員も、顧客も、渡らされるのです。
だったら、橋の安全性くらい、先に確かめておいていただきたいものです。
参考資料
株式会社識学「組織マネジメントに『必要な恐怖』とは パワハラとの違いも解説」(ツギノジダイ、2023年1月13日)
金融庁「プルデンシャル生命保険株式会社等に対する行政処分について」(2026年10月9日)
国土交通省「ビッグモーターの本社に関して確認された問題」(2024年3月29日公表・別添2)
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