芸術の価値を決めるのは誰か——『国宝』と『セッション』が示す二つの答え

映画『国宝』がAmazonプライムで配信され始めました。

昨年、私はこの映画を劇場で見ました。舞台の美しさにも、俳優たちの身体にも圧倒されました。三時間近い上映時間を、大作として成立させた力も、軽く扱えるものではありません。

不覚ながら、きちんと感動もしました。

ただ、巷で語られているほどには、いい映画だと思えなかったのです。

嫌いだったわけではありません。退屈したわけでもありません。それでも、見終わったあとに残ったのは、絶賛の言葉だけでは説明できない、わずかな引っかかりでした。

その違和感の正体を考えているうちに、一本の映画が浮かびました。

デイミアン・チャゼル監督の『セッション』です。

題材は歌舞伎とジャズ。時代も場所も異なります。しかし、二つの映画にはよく似た骨格があります。

才能を持つ若者が芸の世界へ入り、常人なら引き返すところまで自分を追い込み、生活や人間関係を壊しながら、最後には異常な高みへ到達する。

ところが、その到達を見たときに残る感情は、かなり違います。

『国宝』にはカタルシスがある。

『セッション』には、高揚と同時に、拭いきれない気味の悪さが残る。

その違いは、芸術の価値を最後に誰が保証するのか、という一点にあるように思います。

目次

人生を一つの称号へ収束させる

『国宝』の喜久雄は、歌舞伎の世界で生きるために、さまざまなものを失っていきます。

家族、友情、愛情、居場所。そして、ときには人として守るべきものまで削りながら、芸の道を進んでいく。

こうした「芸のために人生を捧げる人物」は、決して珍しいものではありません。才能ある人間が日常的な幸福を手放し、孤独と引き換えに、凡人には到達できない場所へ進んでいく。私たちは、題材を変えながら何度もこの物語を見てきました。

『国宝』が新鮮なのは、この構造そのものではありません。

歌舞伎という世界を、これほど豪華に、これほど美しく、映画として可視化したことです。

見たことのない映像であることと、見たことのない人間ドラマであることは、同じではありません。

私は前者には圧倒されながら、後者にはどこか既視感を覚えました。

そして最後に、喜久雄は「人間国宝」という社会的な承認へ到達します。

もちろん、この制度が認定するのは、その人の人格や人生ではありません。認定されるのは、高度に体現された「わざ」です。

しかし映画の中では、その称号が、喜久雄の長い人生に対する最終判定のようにも見えます。

彼の苦しみも、孤独も、誰かを傷つけたことも、最後の到達点から遡って、一つの意味を与えられていく。

あれほど多くのものを失った。
しかし、それだけの芸を残した。
そして、ついに社会から認められた。

映画が露骨に「すべて正しかった」と語っているわけではありません。それでも、最後に示される芸の完成と称号の重さは、ばらばらだった人生を一つの大きな物語へまとめます。

だから、私は感動できたのだと思います。

苦しみが無駄ではなかったと確認できるからです。

同時に、そのきれいな収束に、少しだけ立ち止まりました。

人間国宝になったことで、あの犠牲には意味があったことになるのでしょうか。

誰にも保証されない到達

『セッション』もまた、芸のために人間が壊れていく映画です。

主人公のアンドリューは、偉大なドラマーになるために、自分の身体や生活、人間関係を削っていきます。彼を追い込む指導者フレッチャーは、教育者という言葉では収まらないほど暴力的で、残酷です。

そしてラストで、アンドリューは途方もない演奏に到達します。

あの場面には、間違いなくカタルシスがあります。

見ている側も興奮する。アンドリューは逆境をはね返し、フレッチャーすら圧倒したように見えます。

ところが、素直に「よかった」とは言えません。

あれはアンドリューがフレッチャーを乗り越えた瞬間なのでしょうか。それとも、フレッチャーが求め続けた人間へ、ついに完成してしまった瞬間なのでしょうか。

最後にアンドリューの演奏を認めるのは、ほかならぬフレッチャーです。

彼はアンドリューを傷つけた加害者であると同時に、その才能を最も理解している人物でもある。

だから、その承認は純粋な栄誉にはなりません。

本物に認められたのか。
加害者の思想を完成させてしまったのか。

二つを切り離せないまま、映画は終わります。

『国宝』では、制度的な承認が、それまでの苦しみに一つの意味を与えます。

『セッション』では、承認そのものが汚染されています。

どちらも芸の高みに到達する映画です。しかし、『国宝』の到達は、人生を一つの物語として閉じる。『セッション』の到達は、それまで以上に大きな問いを開いてしまう。

『セッション』のラストでは、興奮しながら、観客は自分自身に問わされます。

いま私は、いったい何に拍手しているのだろう、と。

カタルシスが過去を書き換える

私は『国宝』のカタルシスを否定したいわけではありません。

そもそも、自分自身がそれを感じています。

ただ、成功や承認には、過去の意味を書き換える力があります。

長年報われなかった人が、最後に大きな評価を得れば、それまでの苦労は「必要な道のり」と呼ばれるようになります。途中の失敗も、孤独も、回り道も、成功へ至る物語の一部になる。

一方、同じように努力し、同じように何かを失いながら、最後まで認められなかった人の苦しみは、「無駄だった」と片づけられかねません。

しかし、最後に称号を得たかどうかで、それまでの時間の価値まで変わるのでしょうか。

私は銀行員として長く働き、数字と制度の側から、企業や事業を評価する仕事に携わってきました。

融資できる会社と、できない会社を分ける。将来性があると判断する事業と、そうではない事業を分ける。

当時は、それが仕事でした。

けれども今になって思います。

私たちは本当に、その事業の価値そのものを測っていたのでしょうか。それとも、金融機関の制度や基準によって、価値として認識できるものだけを測っていたのでしょうか。

融資が実行されれば、事業は続き、やがて実績が生まれます。そして後から、「やはり価値のある事業だった」と証明される。

融資を受けられずに消えた事業は、価値がなかったから消えたように見える。

しかし、それは本当に同じことでしょうか。

認められたから価値があったのか。
価値があったから認められたのか。
あるいは、認められたことで、過去まで含めて価値あるものに見えるようになったのか。

これは、検索結果のかなり下のほうで文章を書いている人間にとっても、少々身につまされる問いです。

読まれない文章には価値がないのか。

賞を取らない映画は劣っているのか。

制度の外にある芸は、制度の内側に入った瞬間よりも価値が低いのか。

私には、簡単には答えられません。

感動したからこそ、残った問い

李相日監督が、人間の割り切れなさを描けない監督だとは思いません。

『悪人』では、誰が悪人なのかを簡単には決められませんでした。登場人物たちの苦しみは、何か偉大なものへ昇華されることもありません。最後に立派な意味を与えられないからこそ、人間のどうしようもなさが残りました。

『国宝』は、それとは違います。

人間の醜さや弱さを描きながら、最後には、それらを芸の美しさの中へ収めていく。

その収め方が見事だから、私は感動しました。

そして、見事すぎるからこそ、少し引っかかりました。

美しいことと、人生を美しく清算してよいことは、同じではない。

喜久雄が人間国宝にならなかったとしても、彼の芸には同じ価値があったのでしょうか。

あったというのなら、なぜこの物語は最後に称号を必要としたのか。

なかったというのなら、芸術の価値とは、いったい誰が決めるものなのでしょう。

この問いに答えを出せる人間を、私は知りません。


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この記事を書いた人

金融の現場で30年以上、貸す・回収する・法的手続を扱う側として働いてきた主任研究員。腑に落ちないことをそのままにできない性分。当研究所ではDr.ホワイト所長の監督のもと、制度・書面・権利回復に関する実務知識を発信しています。

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