このブログの副題は、
「腑に落ちないことをそのままにしない」
です。
大げさな言葉のようでいて、実はそれほど大げさなつもりはありません。
社会を変えたいとか、誰かを救いたいとか、世の中に正しい知識を広めたいとか、そういうギラギラした思いで始めたわけではありません。
私は海賊王になるつもりもありませんし、ポケモンマスターになるつもりもありません。
ただ、自分で未払賃金の裁判をやってみて、思ったことがあります。
これは、もしかすると、泣き寝入りしている人がたくさんいるのではないか。
押しの強い事業主に丸め込まれた人。
労基署へ行ったものの、よくわからない説明を受けて帰ってきた人。
自分が悪いのかもしれないと思わされた人。
証拠はあるのに、それをどう整理すればよいのかわからなかった人。
「裁判なんて無理だ」と思って、最初から諦めた人。
そういう人が、どこかにいるのではないか。
もちろん、私は弁護士ではありません。
法律相談を受けられる立場でもありません。
誰かの代理人になることもできません。
だから、「私が力になります」などとは軽々しく言えません。
それは危ないし、少し気持ち悪い。
けれど、一度自分でやってみたからこそ、見えたものはあります。
訴状を書く前に、何を整理しなければならないのか。
相手の言い分を、どう読めばよいのか。
感情的には許せなくても、書面では何を書き、何を書かない方がよいのか。
裁判所に伝えるべきことと、ただ腹が立っているだけのことは、どう違うのか。
そういうことは、やってみるまで本当にはわかりませんでした。
少額訴訟は簡単。
本人訴訟は誰でもできる。
ネットで検索すれば、そんな言葉はいくらでも出てきます。
けれど、実際にはそんなに簡単ではありません。
少額訴訟であっても、裁判は裁判です。
一回の期日で勝負が決まるからこそ、準備はむしろ重い。
相手がまともな答弁書を出してくるとは限らない。
争点外の話や人格攻撃が並ぶこともある。
それでも、裁判官に伝えるべきことは、こちらが整理しなければならない。
これは、やってみるとかなりしんどい作業です。
私はたまたま、書面を書くことにそれほど抵抗がありませんでした。
銀行員時代に稟議や報告書を書き続けてきたことも、たぶん役に立ちました。
相手の主張の矛盾を拾うことにも、ある程度は慣れていました。
だから、なんとか最後まで行けた。
でも、普通はそうではないでしょう。
法律の条文を見ただけで嫌になる人もいる。
裁判所というだけで足がすくむ人もいる。
相手から強い言葉を投げられると、それだけで自分が間違っているような気持ちになる人もいる。
それを「勉強不足」と言ってしまえば簡単です。
でも、私はそうは思いません。
人は、自分が知らない場所に放り込まれると、驚くほど弱くなります。
銀行員だった私が、裁判所では素人だったように。
そして、素人であることにつけ込む人もいます。
自分が法律を知らないことを棚に上げて、もっと強い口調で押し切ろうとする人もいます。
本来なら助けになるはずの行政が、現場ではどうにも頼りないこともあります。
そういうものを目の前で見てしまうと、腑に落ちないのです。
判決として表に出るのは、たった一つの結論です。
原告の請求を認める。
被告は支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
外から見れば、それだけです。
でも、その結論の前には、いろいろな時間があります。
給与が支払われなかった日。
相手に連絡した日。
返事を待った日。
怒りを抑えて、事実だけを書き出した日。
証拠を並べた日。
何度も書面を書き直した日。
そして、こんなことまでしなければならないのかと、呆れた日。
判決文には、そういう時間はほとんど残りません。
けれど、実際にはそこに人がいます。
これは、裁判に限った話ではありません。
会社でもそうです。
派手に成果を語る人がいます。
会議でうまく話す人がいます。
自分を改革者のように見せる人がいます。
そういう人が評価されることもあります。
もちろん、本当に優秀な人もいるでしょう。
ただ、その成果の前には、たいてい地味な仕事があります。
資料を整えた人。
間違いに気づいた人。
取引先に頭を下げた人。
事務処理を遅らせなかった人。
余計な混乱を起こさなかった人。
大げさな理念などなくても、その日の持ち場で、その日の仕事をした人がいる。
そういう人たちは、物語の主人公にはなりません。
でも、その人たちがいなければ、主人公の物語も成立しない。
だからといって、私は「もっと裏方に光を当てよう」と言いたいわけではありません。
光を当てられた方だって、
「え、おれ?」
となるかもしれません。
本人は、ただ普通に仕事をしただけかもしれない。
大それた志もなく、後世に名を残すつもりもなく、ただ自分の持ち場を雑に扱わなかっただけかもしれない。
私は、そういう人を称賛したいわけではありません。
ただ、表に出てくる結論だけを見て、わかったことにするのが苦手なのです。
名城を見ても、少し似たことを考えます。
私の携帯の待受け画面は、しばらく宇和島城でした。
日本に十二しか残っていない現存天守の一つです。
ただし、姫路城や松本城のような圧倒的な華やかさはありません。
彦根城や犬山城のような知名度も、松江城のような重厚さも、たぶんありません。
宇和島城は、小さい。
かなり小さい。
でも、そこがいいのです。
藤堂高虎の築城は、やはりすごいと思います。
縄張りも、石垣も、城の防御性という機能がそのまま美に昇華しているように感じます。
ただ、そこで終わらない。
この石を運んだ人は誰だったのだろう。
この木を削った人は誰だったのだろう。
現場で最後に寸法を合わせた人は、どんな人だったのだろう。
もちろん、名前など残っていません。
調べようもない。
それでも、なぜかそこに思いが行ってしまうのです。
これは、歴史上の無名人を称えたいという話ではありません。
「縁の下の力持ちは偉い」という道徳の話でもありません。
ただ、立派なものを見ると、その立派さを支えたはずの、名前のない仕事の方へ意識が滑っていく。
自分でも理由はよくわかりません。
たぶん、自分自身がそれほど大した処遇を受けてこなかったからかもしれません。
銀行員として三十年働いても、表の物語の主人公にはなりませんでした。
会社員として、都合よく使われたと感じることもありました。
理不尽な相手と裁判をして、ようやく「これはおかしい」と言葉にできたこともありました。
でも、それだけでは説明しきれません。
不遇だった人が、みな同じように考えるわけではない。
自分をもっと評価しろ、という方向へ行く人もいるでしょう。
自分は不当に扱われた、という物語を語り続ける人もいるでしょう。
私にも、そういう気持ちがまったくないとは言いません。
でも、どこかで少し違うのです。
自分がどう扱われたかだけではなく、表に出てこないまま押し切られてしまう人が、他にもいるのではないか。
表に出てくる結論の前には、言葉にされなかった思いがたくさんあるのではないか。
そう考えてしまう。
だから、私は書いています。
誰かを救うためではありません。
誰かの力になってやるためでもありません。
自分の経験を武勇伝にしたいわけでもありません。
ただ、腑に落ちなかったことを、そのままにしたくない。
自分が見たもの、考えたこと、つまずいたこと、後から気づいたことを、ここに置いておきたい。
それが、どこかの誰かにとって、少しだけ役に立つことがあるかもしれない。
あるいは、まったく役に立たないかもしれない。
そのくらいの気持ちです。
色々あるかもしれませんが、まあ、見ていってください。
そんな程度の距離感です。
ただし、ふざけてはいません。
軽く考えてもいません。
私は、表に出ている結論だけで、世界をわかったことにしたくないのです。
判決の前に人がいる。
成果の前に仕事がある。
名城の前に手がある。
批評の前に、その作品に向き合った誰かの時間がある。
それを全部見ろ、などとは言いません。
私自身、見えていないものの方が圧倒的に多い。
それでも、見えているものだけでわかった気になるのは、どうにも腑に落ちない。
だから、今日も書いています。
腑に落ちないことを、そのままにしないために。
本ブログでは、日常やビジネスに潜む構造を観察しています。これらの思考の土台となった、実際の紛争における人間観察と実務の全記録は、noteに収録しています。事象を抽象化し、構造として捉えるための参考資料としてご活用ください。

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