振込の話は進まないのに、現金を受け渡す場所と人の話だけは、ずいぶん具体的になっていきました。
退職後の未払給与について、労働基準監督署に相談したときのことです。
会社で受け取れなければ、労基署で。本人が来なければ、第三者に受け取りに来てもらえばよい。
私は、すでに知らせてある口座へ振り込んでほしいと伝えていました。会社が問題にした振込手数料についても、返還請求権を放棄し、支払える道筋を示していました。
それでも、受渡しの段取りは増えていく。
しかも労基署は、一時は会社に振込で支払うよう指導する見通しを、私に伝えていたのです。
※個人・事業者の特定を避けるため、日付は概括して記載しています。
手数料の問題は、こちらから処理していた
発端は、最後の給与の支払日前に届いた会社からの連絡でした。
前回の給与は銀行振込でしたが、振込手数料が差し引かれていました。会社は、協定がないのに控除したことを問題にし、その手数料を返すことと、次の給与を現金手渡しにすることを伝えてきました。
私は、その日のうちに返信しました。
前回差し引かれた手数料の返還請求権は放棄する。会社側で返却する必要はない。最後の給与は、すでに知らせてある口座へ振り込んでほしい。
債権放棄であることを明記し、会社に返還の負担がなくなることまで説明しました。
返さなくてよくなった金額を、次の振込手数料に充てれば、給与本体を減らさずに振り込めます。さらに、次の振込で手数料を差し引く場合にも返還請求はしないという意向まで伝えました。
会社が手数料を問題にするので、こちらから処理する道筋を示したのです。
ところが、返ってきたのは、
「協定書がない以上、そうもいかない」
という返事でした。
指定した日時に、会社まで取りに来てほしいというのです。
「差し引けない」と「振り込めない」は別の話
ここで、二つの話を分ける必要があります。
一つは、給与から手数料を差し引いてよいか。もう一つは、給与を銀行口座へ振り込んでよいか。
会社が手数料を負担して給与を全額振り込めば、給与からの差引きは起きません。「差し引けない」ことから、そのまま「振り込めない」という結論には進めないのです。
そして、この二つには、それぞれ「協定」という言葉が出てきます。
賃金控除について法律が定める協定と、口座振込について行政通達が求める協定です。同じ名前でも、根拠と位置づけが異なります。
私は、この区別を踏まえて説明していました。
口座振込について通達が協定締結を求めていることは承知している。そのうえで、行政上の取扱いと法令上の要件を区別し、本人が明確に希望する振込まで「法律上できない」とする根拠を問題にしていました。
会社には前回の振込実績がある。口座も分かっている。本人は振込に同意している。手数料についても、こちらから解決方法を示している。
振込ができないというなら、こうした事情を踏まえて、具体的な障害を説明する必要があります。
法律の説明に必要なのは、法律らしい単語を置くことではなく、その関係を明らかにすることです。
「協定がない」という一言では、そこが抜け落ちます。
会社への回答が、先にあった
私が申告する前に、会社側は労基署へ相談していました。
そこで受けたのが、振込はできず、現金手渡しが正しいという趣旨の説明だったといいます。
これは、会社側の説明だけを根拠に書いているのではありません。
後に私が勝訴したことを労基署へ報告した際、職員は、会社にその趣旨の回答をしたことを認めました。
私が相談に行った時点で、労基署はすでに、一方の当事者へ支払方法について回答していたわけです。
会社側が「労基署がそう言っている」と持ち出せる状態は、行政自身の回答によって作られていました。
支払日を過ぎても給与を受け取れず、その一週間ほど後、私は労基署に申告しました。返還請求権を放棄したこと、協定の問題、会社との具体的なやり取りも説明しました。
申告から一週間余りたった頃、担当者から電話で説明を受けました。会社に振込で支払うよう指導するつもりで、従わなければ勧告もあり得るという趣旨でした。
説明した内容が、ようやく対応につながるのかと思いました。
ところが、さらに二週間ほど後、会社側と労基署が面談すると、私に示される説明は変わりました。
会社は現金を用意している。支払う準備はできている。それなのに、私が取りに行こうとしない。
会社の支払対応を問題にしていたはずが、いつの間にか、私の受取り方を問題にする話になっていました。
是正勧告は出ませんでした。
経過を整理すると、こうなります。
先に会社へ、現金手渡しを支持する趣旨の回答をしていた。
私の申告後には、振込を指導する見通しが伝えられた。
会社との面談後には、現金を用意している会社側を支持する説明になった。
労基署内部で何があったのか、私は知りません。
その間に、どの事実を確認し、どの論点をどう判断したのでしょうか。
私が説明した債権放棄や協定の区別、支払場所、受領条件をどう扱ったのか。「会社は現金を用意しています」という説明だけでは、その判断の筋道は見えません。
現金を用意した、その先の問題
会社側の対応には、受取りに関する問題もありました。
退職前から、代表電話への連絡や、事前の約束なしの訪問などを制限されていました。その後のメールでは、代表電話への架電、郵便物の送付、直接の来所を「迷惑行為」とし、代表者の携帯へ連絡し、その折り返しを待ち、日程調整をしてから行動するよう求められました。
会社まで取りに来てほしい。
ただし、通常の連絡や来所は迷惑であり、代表者個人への連絡と、その後の調整を経なければならない。
給与は会社にあり、受取りに至る手順も会社側が握っている。その状態で、取りに来ない私の側が問題だとされる。
私は、その条件まで含めて問題にしていました。
退職後の給与の支払場所、会社が指定した場所と条件で受け取る義務の有無、債務の内容に沿った適切な支払の提供といえるかどうか。
現金手渡しが認められる支払方法であることと、この会社の具体的な支払対応に問題がないことは、別です。
後には、現金を用意しているという説明とともに、封筒の写真まで送られてきました。
写真が届いたことと、給与が届いたことも、もちろん違います。
支払う準備をしたという説明は届く。封筒の写真も届く。肝心の給与をどう受領できる状態にするのかという問題だけが、残り続けました。
行政まで、受渡しの段取りを組んでいた
労基署からは、署内で給与を受け渡す方法まで提案されました。私本人が行かなければ、第三者に受け取りに来てもらうという話もありました。
冒頭に書いた、受渡場所と人の話です。
そこまで調整するなら、私が最初から示している振込について、何が障害なのかを具体的に整理してほしい。
返還請求権を放棄したことまで説明しています。協定の位置づけも、支払場所も、受領条件も問題にしています。
ところが、返ってくるのは、現金手渡しを実現するための段取りでした。
私には、検討の中心が、賃金をどう適切に支払わせるかから、会社が選んだ方法をどう成立させるかへ移っているように見えました。
会社側の選択は固定され、そのための場所や人を周囲が調整していました。
行政まで、その段取りを組む側に回っていました。
説明を受けた側の仕事
会社に給与の支払いを求めた裁判では、私は勝訴しました。
訴訟では、給与からの控除や遅延損害金も争点になりました。会社が現金を用意していたという話だけで、紛争全体を処理できるものではなかったのです。
労基署が勧告を出さなかったことは、会社の民事上の支払義務や、遅滞の責任まで消すものではありません。
私は、労基署にも説明していた論点を、裁判書面に整理して争うことになりました。最初の段階でそれらを正面から扱っていれば、裁判を経ずに解決できたのではないかという思いは、今も残っています。
行政窓口の説明には、重みがあります。
「労基署がそう言うのだから」と、そこで引き下がる人もいるでしょう。公的な説明は、その内容だけでなく、発言する組織の権威と一緒に受け取られます。
会社側への回答には、その権威が付く。相談者に示す結論にも、その権威が付く。
それだけの影響を持つ説明が途中で変わり、すでに伝えた論点への答えが見えないまま、受け取りに行かない側の問題へと話が移っていく。
権威のある説明ほど、判断の筋道が必要です。結論だけを示しても、説明したことにはなりません。
必要な論点は、伝えていました。
問われるべきなのは、それを受けた側の仕事です。
現金を渡す段取りの前に、説明すべきことが残っていました。
「現金を用意している」と言われたときの確認点
同じような説明を受けたときは、「現金か振込か」だけで話を終えず、次の点を分けて確認すると、争点が見えやすくなります。
支払期日と金額
いつ、いくら支払う約束だったか。差し引かれた金額や、その理由は何か。
支払方法と支払場所
契約や就業規則、従前の支払状況はどうなっているか。会社が指定する方法・場所の根拠は何か。
実際の受取条件
日時や連絡方法にどのような制限があり、何をすれば受け取れると説明されているか。
窓口の説明の範囲
法律上の可否、今後の指導の見通し、解決案の提案のうち、どの話なのか。
電話や面談の後は、日時、担当者、説明内容、未回答の点をメモに残しておくと、後から説明の変化を確認できます。
「現金を用意している」は、確認する事実の一つです。それだけで、支払期日、金額、場所、受取条件の問題がすべて片づくわけではありません。
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