「庇う」は、本当に善意なのか——『白鳥とコウモリ』で嘘より怖かったもの

※この記事は、東野圭吾『白鳥とコウモリ』の結末を含む重大なネタバレがあります。
※映画版は未見です。原作小説について書いています。

映画『白鳥とコウモリ』が公開されています。

私は映画を見る前に、まず原作を読みました。

読み終えて最初に残ったのは、やはり「罪と罰」という問いでした。誰が罪を犯したのか。時効になった罪は消えるのか。罪を犯した本人ではなく、その家族まで社会的な制裁を受けるのはなぜなのか。

確かに、この小説はそういう話です。

ただ、読み終えてしばらくすると、別の言葉が気になり始めました。

「庇う」です。

誰かを守る。誰かのために自分が犠牲になる。責任を引き受ける。普通なら、善意の側に置かれる言葉でしょう。

ところが『白鳥とコウモリ』では、この「庇う」という行為が、読み進めるほど怖く見えてきます。

なぜなら、庇われる本人が、その決定にほとんど参加していないからです。

目次

倉木は、白石の人生を勝手に決めた

三十年以上前、灰谷を殺したのは倉木達郎ではありませんでした。

白石健介です。

倉木はそれを知りながら、白石につながる証拠を隠しました。若い白石には将来がある。ここで人生を終わらせてはいけない。おそらく倉木は、本気でそう思ったのでしょう。

しかし、白石は倉木に「隠してくれ」と頼んでいません。

白石の将来とは何か。白石にとって何が一番いいのか。罪をどう扱うべきなのか。それを倉木が一人で決めた。

ここに、この小説の「庇う」という行為の危うさがあります。

自分が犠牲になるだけなら、まだ自己犠牲です。しかし倉木は、他人の人生の扱い方まで決めています。

しかも、その決定の代償を払ったのは倉木でも白石でもない。

福間淳二でした。

犯人として逮捕され、自殺する。その家族もまた、その後の人生を変えられてしまう。

倉木は一人の若者を守ったつもりでした。しかし実際には、守る相手を一人だけ選び、その決定に参加していない別の人間にコストを払わせたことになります。

善意であることと、暴力であることは両立する。

むしろ善意だったからこそ、自分の判断を疑わなかったのかもしれません。

三十年以上たっても、倉木は同じことをする

私がこの小説で残酷だと思ったのは、倉木が長い悔恨を経ても、他人の人生を自分が引き受けて決めるという、同じ決め方へ戻ってしまうことです。

彼は福間の件を悔やみ続けてきました。自分が白石を守ったせいで、無実の人間が死んだ。その後悔は、本物だったのでしょう。

ところが白石殺害事件で、倉木はまた同じことをします。

今度、守ろうとしたのは知希だけではありません。

冤罪被害者の孫なのだから、自分たち大人のしたことの被害者なのだから、この少年の将来を守らなければならない。

そう考え、自分が白石を殺したと虚偽の供述をする。

その嘘は同時に、白石が弁護士として築いてきた人生と、死後の尊厳を守るものでもありました。白石が灰谷を殺し、その罪を着せられた福間が死んだと明らかになれば、人を助けてきた三十年の意味まで問い直される。倉木は、その人生を死後に壊させまいとしたのでしょう。

美令にとっての父も、綾子にとっての夫も、後から書き換えられる。

倉木が引き受けようとしたのは知希の未来だけでなく、死んだ白石の名前と、遺族の記憶でもあった。

それを守るために、二人には真実を伏せた父と夫の姿が渡されることになります。

しかし知希もまた、「守ってほしい」と頼んでいません。

白石が死後まで秘密を守ってほしかったかは、もう本人に確かめられない。「守らなくていい」と拒む声も返ってこない。

死者の尊厳を守るという判断は、守られる本人から問い返されることがないのです。

三十年以上前は、白石の未来を。今度は、知希の未来と、白石が生きてきた過去を。その扱いを、また倉木が一人で決めています。

「この人たちは、こう守られるべきだ」という物語を倉木が完成させ、その物語に合わせて真実を曲げる。

贖罪として行ったはずの行為が、構造としては最初の過ちの反復になっています。

倉木は自分の罪を悔いていた。

それでも、他人に代わって決めるという構図は残っていた。

そう考えると、倉木にとって「庇う」は、いつしか倫理というより、自分の居場所になっていたのではないかという気もします。

自分が引き受ける。自分が犠牲になる。自分が背負う。

そうすれば少なくとも、自分は「人を守る側の人間」でいられる。

本人にそんな打算はないでしょう。

だからこそ厄介です。

そして、知希を庇ったのは倉木だけではありません。白石自身も、自分を刺した知希を守ろうと、瀕死の状態で車を動かし、犯行現場を偽装しようとしました。

過去の罪への悔恨や贖罪の意識があったのでしょう。その行為だけを見れば、最後の力を振り絞った自己犠牲は美しくも見えます。

しかし、知希の実際の動機を知ったあとでは、その美しさも揺らぎます。白石もまた、知希を「自分たちの過去によって傷ついた若者」と理解し、その理解の中で守ろうとしたのではないか。そこにも、本人に代わって「こう守られるべきだ」と決める危うさがあったのかもしれません。

三十年以上前、倉木が白石を庇った。その白石が知希を庇い、最後に倉木が白石と知希の両方を庇おうとする。

「庇う」が連鎖する。その中で、守られる本人の意思よりも、守る側が思い描いた物語が先に立つ。そして、その物語を保つために、真実を隠す必要が生まれるのです。

嘘は、物語が完成したあとに必要になる

この小説で嘘をつく人間は、最初から嘘をつこうとしているわけではありません。

先に物語があります。

白石は将来のある若者だ。だから、証拠を隠す。

三十年以上後には、知希は冤罪被害者の孫だ。白石は弁護士として人を助けてきた。知希の未来も、白石の尊厳も守られるべきだ。だから、自分が犯人になる。

順番が逆なのです。

嘘は物語の出発点ではありません。完成した物語を守るために、後から嘘が必要になる。

私はここが、この小説で一番怖いところだと思います。

問題は、単に「嘘はいけない」ということではない。その前に、「私はもう、この人について分かった」と思ってしまう。

説明が完成すると、その説明に合わない事実が邪魔になります。すると人は、事実に合わせて説明を直すのではなく、説明を守るために事実を扱い始める。

倉木が繰り返したのは、まさにそれでした。

福間の冤罪にも、同じ構造がある

ここから見ると、福間の冤罪もよく似ています。

福間が犯人である。

一度その説明が成立すると、そこから逆向きに事実が配置されていく。この行動も怪しい。この事情も説明できる。だから、やはり福間だ。

本来なら証拠から説明へ進むはずのものが、完成した説明の中へ証拠を収めていく方向に反転してしまう。

この作品で描かれた冤罪の怖さは、誰かが悪意をもって虚偽を作ったことだけではありません。

「これで説明がついた」と納得してしまうことです。

制度が嘘をついたというより、制度を動かす人間が、説明の完成を欲しがった。

もちろん、これはこの小説に描かれた事件についての話です。現実の刑事司法一般を、この一作から論じようというつもりはありません。

ただ、人間が「説明がついた」と思った瞬間に何が起こるのか。その危うさは、司法に限った話でもないでしょう。

読者もまた、知希に物語を与える

知希が真犯人だと分かったとき、私は一度「ああ、そういうことか」と思いました。

冤罪で死んだ福間の孫。家族を壊された少年。その原因となった白石への復讐。

きれいに収まります。

ところが、知希の動機はそこには収まりません。

祖父の無念を晴らすためだけに白石を殺したのではない。知希自身の中には、殺人への欲望があった。白石は、その欲望を実行しても自分を納得させやすい相手だったという面がある。

そこで、こちらが作った物語も崩れます。

そして嫌なのは、読者である私も、倉木と同じことをしていたと気づかされることです。

「冤罪被害者の孫」と聞いた瞬間に、その人間の行為を理解したつもりになっていた。

なるほど、復讐か。

それで一人の人間を説明し終えようとしていた。

この小説で嘘より怖いのは、分かりやすい説明を完成させたくなる欲望なのかもしれません。

保証人でもないのに、連帯責任を負わされる

そして、誰かが勝手に完成させた物語のコストを払うのは、決定に参加していない人たちです。

美令は何もしていません。和真も何もしていません。綾子も、織恵も、洋子も同じです。

法律上の責任は、本来、罪を犯した本人のものです。

銀行の与信で考えると、この作品の不条理さがよく分かります。

保証債務なら、誰が保証人なのかは決まっています。負う責任にも根拠があり、債務が消滅すれば保証債務も終わる。少なくとも、責任を負う仕組みと、責任が終わる仕組みがあります。

ところが、加害者家族に課される社会的制裁には、それがありません。

契約もない。同意もない。責任額も期間も決まっていない。

それなのに、「あの人の家族だから」という理由だけで、事実上の連帯責任を負わされる。

しかも、解除の手続きが存在しない。

誰も判決を言い渡していない。誰も執行を命じていない。それでも、報道や周囲の視線や人間関係によって人生は確実に変わる。

ずいぶん奇妙な「罰」です。

そしてこの作品では、加害者遺族と被害者遺族の境界さえ、途中から曖昧になります。

美令は殺された白石の娘です。ところが、その白石自身が過去の殺人犯であり、福間の冤罪に関わる側でもあった。

被害者の娘であると同時に、別の事件では加害者側の家族にもなる。

白鳥とコウモリを、きれいに左右へ分けられない。題名まで含めて、ずいぶん意地の悪い小説です。

倉木が誰かを庇うために真実を曲げれば、その外側にいる家族の人生まで変わる。自分が引き受けたつもりでも、その代償を自分一人にとどめることはできません。

和真は、父に「庇わせなかった」

ここで、和真の存在が重要になります。

和真がやったのは、父を守ることではありません。むしろ逆です。

父に、これ以上「守る側」を続けさせなかった。

倉木にとって「自分が引き受ける」という生き方は、おそらく三十年以上、自分自身を支えてきたものでもあります。人を守る。自分が背負う。そういう自分でありたい。

和真が父の嘘を明らかにすることは、その自己像まで壊すことになります。

「あなたが代わりに背負えばいい」という話ではない。

「そもそも、それをあなたが決めてはいけない」と突き返すことになる。

だから、庇わせないことは優しくありません。場合によっては、庇うことより残酷です。

それでも和真は、父が他人の人生を勝手に引き受けることを止めた。

ここで、美令との対称が見えてきます。

倉木の嘘によって守られるはずだったのは、美令と綾子の中にある父や夫の姿でもありました。

けれど二人は、真実を伏せたまま白石を記憶することを選んだわけではありません。

美令は真実を求めることで、自分を守るために仕組まれた庇護を拒む側に立ちます。

和真は父の「守る側」という自己像を崩し、美令は嘘によって守られた父の尊厳を受け取らなかった。

二人とも、愛する家族にとって都合の悪い真実を、その家族のために隠さなかったのです。

三十年以上前の大人たちができなかったことです。

佐久間は、答えを完成させない

だから最後の佐久間弁護士の言葉が効いてきます。

罪と罰の問題は難しく、簡単に答えを出せるものではない。だから一緒に考えていこう。

倉木との違いは明確です。

倉木は一人で答えを出します。この人は守るべきだ。だから、こうする。

佐久間は答えを出しません。分からないから、考え続ける。

一見すると何も解決していないようにも見えます。でも「分からない状態」に留まることは、意外に難しい。人は、善人か悪人か、被害者か加害者か、復讐なのかそれ以外なのか、庇うことは善なのか悪なのかと、どこかに答えを置きたくなるからです。

佐久間は、それをしない。

しかも美令を「かわいそうな被害者遺族」として保護しようともしていません。あなたなら、この問題をこれからも考え続けるだろう。だから仕事を手伝ってほしい。

同じ問いの前に座る人間として扱っています。

倉木が白石にも知希にも、一度もしなかったことです。

美令が引き受けたのは、他人ではなく自分だった

美令が最後に選んだ道にも、そこから意味が出てきます。

東野圭吾は、美令に分かりやすい救済を与えません。父親の過去は消えない。綾子の喪失も消えない。真実を知ったから幸せになったわけでもありません。

与えられたのは、仕事です。

罪と罰について、考え続ける仕事。

ずいぶん痩せた救いです。

でも、ここには倉木との決定的な違いがあります。

倉木は他人の人生を勝手に引き受けた。白石の生前だけでなく死後まで引き受ける。知希の未来も引き受ける。しかし本人には決めさせない。

一方、美令が最後にやったのは、自分の人生を自分で引き受け直すことでした。

「殺された弁護士の娘」「過去に人を殺した男の娘」。そうした立場は、すべて他人の行為によって与えられたものです。

その位置に置かれたまま生きるのではなく、自分の意思で「罪と罰を考える側」に移る。

倉木は他人の人生を勝手に引き受けた。美令は自分の人生を自分で引き受けた。

同じ「引き受ける」でも、決定権が誰の手にあるかが違います。

私の読みには、都合の悪い三十年がある

倉木があのとき白石を庇わなければ、白石がその後、弁護士として生きた三十年以上の時間も存在しなかったかもしれない。

白石はその時間の中で、人を助けてきました。

私はここまで、倉木の「庇う」を、本人の意思を聞かずに他人の人生を決める行為として書いてきました。しかし、彼が守ろうとしたものには、白石が実際に人を助けてきた時間も含まれていた。その読みを通すうえで、この三十年は都合が悪い。

それを単に「倉木が守りたかった物語」として片づければ、そこで救われた人たちを、私の読みの外へ追いやることになる。それこそ、この記事が批判してきたことを私自身がやることです。

善意であることと、暴力であることは両立する。倉木の独断は福間を死なせた。一方で、その独断によって白石に与えられた時間も確かにあった。

では、その後の三十年は、倉木の判断を少しでも正当化するのでしょうか。

私には分かりません。

白石が後に多くの人を助けたことをもって、福間一家が支払った代償と相殺することはできません。結果として白石が善く生きたからといって、当時の倉木にその未来が見えていたわけでもありません。

それでも、「庇うことは結局、独断的な暴力なのだ」と言い切れば、話はきれいに終わります。

その瞬間に私はまた、自分に都合のいい説明を完成させることになる。

批評というもの自体、作品から材料を拾い、何かを捨て、一つの読み方を作る作業です。だから、この記事を書いている私自身も、倉木の側から完全には逃げられません。

そう考えると、佐久間の言葉がまた違って聞こえてきます。

答えは簡単には出ない。考え続ける。

犯人は分かりました。三十年以上前の事件も分かりました。倉木がなぜ嘘をついたのかも分かりました。知希が白石を殺したことも分かりました。

ミステリーとしての謎は、ほぼ解けています。

それでも、

誰が、誰の人生について決める権利を持っていたのか。

私はまだ、そこから先へ進めていません。

映画版はまだ観ていません。映画がこの「庇う」という行為をどう描いているのか。観たあとで、この読みが崩れるようなら、それもまた書いてみたいと思います。


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この記事を書いた人

金融の現場で30年以上、貸す・回収する・法的手続を扱う側として働いてきた主任研究員。腑に落ちないことをそのままにできない性分。当研究所ではDr.ホワイト所長の監督のもと、制度・書面・権利回復に関する実務知識を発信しています。

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