そばは語る。うどんは黙る。
うどんとそば、どちらが上か。
こういう話をすると、たいてい面倒なことになります。
そば派は、どこか理屈っぽい。
産地がどう、挽き方がどう、十割がどう、つゆがどう、蕎麦前がどう。
こちらはただ昼ごはんを食べたいだけなのに、いつの間にか日本文化の深淵に片足を突っ込まされています。
一方、うどん派はどうか。
「うまけりゃええがな」
だいたい、こうなります。
もちろん、うどんにも語るべき要素はあります。小麦、塩、水、出汁、茹で加減、踏み、熟成、コシ。語ろうと思えば、いくらでも語れる。
ただ、うどんは不思議な食べ物です。
語れば語るほど、どこかうどんらしさから遠ざかっていく気がする。
そばは、語るほど高くなる。
うどんは、語るほど少し野暮になる。
この差は、なかなか深刻です。
マーケティング論をあざ笑っていた店たち
私がうどん屋巡りを始めたのは、平成が始まったばかりの頃、転勤で香川県に赴任したのがきっかけでした。
当時の香川には、今思えば、かなりディープなうどん屋が普通にありました。
納屋の一角のような場所でうどんを出している店。
木々に隠れた道を「本当にここを進んでいいのか」と不安になりながらたどり着く店。
店の前に車が三台も停まれば、もう満車という店。
大学で習ったマーケティング論を、真正面からあざ笑うかのような存在でした。
立地が悪い。
看板が分かりにくい。
接客が親切とは限らない。
注文方法すら、初見ではよく分からない。
価格は妙に安い。
宣伝もしない。
それでも、地元の人は来ていました。
いや、来ていたというより、そこに生活の一部として存在していました。
うどん屋というより、地域の腹を満たす装置。
観光客に優しくないのではありません。
そもそも観光客を想定していなかったのです。
所長は、メニューを読まない
ここで、当研究所の所長を見ます。
クリーム色のチワワです。
当然ながら、うどんの産地にも、小麦の品種にも、出汁の引き方にも興味はありません。
所長はメニューを読みません。
食べログも見ません。
「この店は本場感がありますね」などとも言いません。
ただ、テーブルの下で静かに待っています。
そして、何か食べられそうなものが落ちる可能性だけを、極めて冷静に観察しています。
この態度は、うどんに近いものがあります。
語らない。
気取らない。
しかし、そこにあるだけで、人間の行動を少し変える。
そばは、人間に背筋を伸ばさせます。
うどんは、人間の警戒心をほどきます。
七味をかけすぎる。
天かすを入れすぎる。
ちくわ天を取るつもりが、なぜかゲソ天も取る。
「小でいい」と思っていたのに、大にしてしまう。
そして食後に、少しだけ後悔する。
でも、その後悔まで含めて、うどんなのです。
うどんブームが奪ったもの
その後、空前のうどんブームが到来しました。
本が出る。
テレビで紹介される。
映画まで作られる。
県外ナンバーの車が押し寄せる。
かつては数台しか止められなかった駐車場が広がり、店の前には行列ができる。
地元の人がさっと食べて帰る場所だった店が、いつの間にか「わざわざ行く名店」になっていく。
もちろん、お店が繁盛することは悪いことではありません。
うどん屋さんも商売です。儲けなければ続きません。
店がきれいになるのも、駐車場が広くなるのも、観光客に分かりやすくなるのも、経営としては正しい。
正しいのですが、どこか寂しい。
昔のうどん屋には、「おしゃれの真逆をいく素朴さ」がありました。
ところがブーム後のうどん屋には、妙に小ぎれいで、お客に優しい店が増えました。
古いスタイルを残している店もあります。
ただ、それすらどこか「わざと古くしている」ように見えることがあります。
あの雑さ。
あの分かりにくさ。
あの「分かる人だけ分かればいい」という不愛想さ。
それらは、単なる不親切ではなく、生活に根ざしていた証拠だったのかもしれません。
そばは接待に耐える。うどんは笑いを誘う。
そばは、実に高級化が上手い食べ物です。
静かな店内。
少し緊張する空気。
職人らしい店主。
控えめな量。
きりっとしたつゆ。
最後にそば湯。
「今日はいい蕎麦屋を予約してあります」と言えば、なんとなく大人の会食になります。
では、うどんはどうか。
「今日はいい讃岐うどん屋を予約してあります」
相手によっては、少し心配されます。
「え、接待でセルフですか」
「天ぷらは自分で取る式ですか」
「お盆を持って並ぶんですか」
この時点で、商談の主導権を少し失っています。
もちろん、高級うどん店もあります。
ありますが、どこかうどん自身が照れているように見える。
「いやいや、私なんぞが高級を名乗りまして、すみません」
そんな声が、丼の底から聞こえてきます。
そばは偉そうにできる。
うどんは偉そうにしきれない。
この差は、価格の問題ではありません。
食べ物としての身の置き方の問題です。
うどんは、笑われることを恐れない
ただ、ここで私は思うのです。
うどんは、そばに負けているのでしょうか。
マーケティング上は、たぶん負けています。
高級化、ブランディング、健康志向、こだわりの見せ方。
このあたりは、そばの方がはるかに上手い。
そばは「作品」になれます。
うどんは、どうしても「食事」であり続けてしまう。
けれど、それは本当に弱さなのでしょうか。
うどんには、自ら笑いものになることを許す懐の深さがあります。
鍋焼きうどんは熱すぎる。
カレーうどんは服に飛ぶ。
伊勢うどんはコシの概念に喧嘩を売っている。
博多うどんはやわらかい。
讃岐うどんは、時々、顎の試験になる。
それでも、うどんは平然としています。
笑われても、少しも傷ついていない。
むしろ、「まあ、そういう日もありますわな」という顔をしている。
ここが、そばにはなかなか出せない味です。
所長も、たまに変な顔で寝ています。
舌が少し出ていることもあります。
本人はまったく気にしていません。
そこに、妙な威厳があります。
完璧に整っているものだけが、強いだけではない。
少し笑われても崩れないものの方が、長く人間のそばに残ることがあります。
負けた顔ができる食べ物は、案外強い
最近の飲食業界では、低価格・効率型と、高付加価値・体験型への二極化が進んでいると言われます。
徹底的に効率化するか。
こだわりの専門店として高単価化するか。
中途半端な店は苦しくなる。
この理屈は、よく分かります。
ただ、昔のうどん屋は、そのどちらにもきれいには収まらない存在でした。
安いけれど、効率化のために設計されたわけではない。
個性的だけれど、高付加価値体験として演出されたわけでもない。
不便だけれど、それを売りにしていたわけではない。
入りにくいけれど、隠れ家を気取っていたわけでもない。
ただ、そこにあった。
この「ただ、そこにあった」という感じが、今ではいちばん得がたいものになってしまったのかもしれません。
うどんは、マーケティングに失敗したのかもしれません。
けれど、失敗したからこそ、生活に残ったのかもしれません。
そばは、語られることで価値を増しました。
うどんは、語られすぎると少し伸びました。
だから、うどんはそばほど偉そうにはなれない。
でも、偉そうになれないからこそ、うどんはうどんでいられる。
所長は、空になった丼をじっと見ていました。
「結局、うどんは負けたのですか」
そう聞くと、所長は少し首を傾げました。
たぶん、こう言いたかっただと思います。
負けた顔ができる食べ物は、案外強いのです。
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