「人を騙してる自覚がまったくない」
——『LIAR GAME』より
これは、かなり怖い言葉です。
嘘をついている人間が、嘘をついている自覚を持っている。
それなら、まだ分かりやすい。
悪意がある。
作戦がある。
隠しているものがある。
もちろん困ります。
しかし、もっと厄介なのは、本人の中では、それが嘘ではなくなっている場合です。
本人は、自分を正しい側だと思っている。
自分は仕方なくやっているだけだと思っている。
むしろ、自分こそ被害者だと思っている。
こうなると、単なる嘘とは少し違います。
嘘が、本人の中で物語になります。
物語が、正当化になります。
正当化が、やがて本人にとっての「本当」になっていく。
『LIAR GAME』という作品は、嘘と駆け引きの物語です。
相手をだます。
相手の嘘を見抜く。
相手が何を隠しているのかを読む。
一見すると、これは単なる心理戦の作品です。
しかし、少し深く見ると、もっと面白いものが描かれています。
それは、
人は、嘘をつく。
そして、ときにその嘘を、自分の中で本当にしてしまう。
ということです。
単に「この人は嘘をついている」と見るだけでは足りません。
なぜ、その人はその嘘をついたのか。
なぜ、その嘘を続ける必要があったのか。
なぜ、途中から本人まで本気で信じているように見えるのか。
そこに、人間のかなり面倒くさい部分が出てきます。
当研究所としては、このあたりを少し観察してみたいと思います。
なお、当研究所には所長がいます。
クリーム色のチワワです。
所長は、おそらくLIAR GAMEを読んでいません。
しかし、おやつを食べたあとに、
最初からここにおやつはありませんでした。
という顔をすることがあります。
これは嘘ではありません。
犬です。
ただし、人間はこれに似たことを、もっと理屈っぽくやります。
認知的不協和という、便利で少し怖い言葉
「認知的不協和」という言葉があります。
いかにも心理学っぽい言葉です。
漢字が六つ並んでいて、少し近寄りがたい。
でも、意味はそこまで難しくありません。
ざっくり言えば、
自分の行動と、自分が思っている自分の姿が矛盾したとき、人はその矛盾を気持ち悪く感じる。
ということです。
たとえば、自分のことを「誠実な人間だ」と思っている人がいるとします。
ところが、その人が実際には誰かに不誠実なことをした。
このとき、心の中にズレが生まれます。
私は誠実な人間である。
しかし、私は不誠実なことをした。
この二つは並びにくい。
落ち着きません。
そこで、人間はどうするか。
一番まっすぐなのは、こうです。
私は不誠実なことをした。
だから反省しよう。
謝ろう。
償おう。
これなら、話は早い。
しかし、人間はいつもそんなに素直ではありません。
むしろ、こう考えることがあります。
あれは不誠実なことではなかった。
相手にも問題があった。
自分は仕方なくそうしただけだ。
むしろ、自分は被害者だ。
こうなると、現実の方を直すのではなく、現実の意味づけを変え始めます。
自分の行動を変えるのではなく、自分の中の物語を変える。
これが、認知的不協和の怖いところです。
人は「悪いことをした自分」に耐えられない
人間にとって、自分が悪者であると認めるのは、かなり難しいことです。
もちろん、口では言えます。
私にも悪いところがありました。
これは、比較的言いやすい。
しかし、本当に自分の非を引き受けるとなると、急に難しくなります。
なぜなら、それは自分のイメージを傷つけるからです。
自分は常識人である。
自分はまともである。
自分は正しい側にいる。
自分は相手よりも分別がある。
そういう自己イメージを持っている人ほど、自分の行動がそこから外れたとき、強い不協和を感じます。
そこで、話を組み替えます。
自分がひどいことをしたのではない。
相手がひどかったから、仕方なかった。
自分が約束を破ったのではない。
相手の態度が悪かったから、守る必要がなかった。
自分が支払わなかったのではない。
相手が受け取りに来なかったのが悪い。
自分が感情的だったのではない。
相手が非常識だったから、こちらも強い対応をせざるを得なかった。
こうして、最初は言い訳だったものが、少しずつ本人の中で事実のようになっていきます。
嘘が、本当になる。
正確に言えば、外の世界で本当になるわけではありません。
本人の中で、本当のような顔をし始めるのです。
嘘は、繰り返すと補強される
嘘というものは、一度だけなら、まだ自分でも嘘だと分かっています。
しかし、それを何度も口にする。
誰かに説明する。
書面に書く。
別の場面でも同じように主張する。
すると、不思議なことが起きます。
その話を維持するために、別の説明が必要になる。
別の説明を守るために、さらに別の言い訳が必要になる。
こうして、嘘の周りに足場が組まれていきます。
最初は小さな仮設テントだったものが、気がつくと立派な違法建築のようになっている。
しかも本人は、その建物の中に住み始めます。
外から見ると、
いや、その建物、傾いてますよ。
と言いたくなる。
しかし、中にいる本人には、もう分かりません。
むしろ、外から指摘されるほど、建物を守ろうとします。
なぜなら、その建物が崩れると、自分が悪かったことになるからです。
これはつらい。
だから、さらに補強します。
柱を増やす。
板を打つ。
看板を掲げる。
「正義」と書く。
「信義則」と書く。
「公序良俗」と書く。
場合によっては、「迷惑行為」と書く。
そう書けば建物がまっすぐになるわけではありません。
しかし、本人の中では、少し安心できるのです。
ラベルを貼ると、現実を支配できたような気になる。
ここが、人間のかなり危ういところです。
LIAR GAMEが面白いのは、嘘そのものより「嘘を守る心理」
LIAR GAMEの面白さは、単に誰が嘘をついたか、ではありません。
その嘘を守るために、人がどのように動くか。
そこにあります。
嘘をついた人は、嘘を守らなければならない。
嘘を守るためには、さらに言葉を重ねなければならない。
そして、言葉を重ねるうちに、自分でもその物語から降りられなくなる。
この状態になると、もはや単純な嘘つきとは少し違います。
本人は、かなり本気です。
自分が正しいと思っている。
自分が追い詰められていると思っている。
自分が攻撃されていると思っている。
自分は仕方なく戦っているだけだと思っている。
こうなると、外から見れば矛盾だらけでも、本人の中では一応つながっている。
その人の中だけにある、閉じた論理です。
LIAR GAMEでは、そこを見抜く人間が強い。
相手が何を言っているかだけでなく、なぜそう言わざるを得ないのかを見る。
相手の嘘を、単なる情報の誤りとしてではなく、心理の防衛反応として読む。
ここに、あの作品の怖さと面白さがあります。
人は、自分を被害者にすると楽になる
自己正当化の中でも、特に強いのが「自分は被害者である」という物語です。
これは非常に強力です。
なぜなら、被害者の位置に立つと、自分の加害性を見なくて済むからです。
自分が何をしたかではなく、相手に何をされたかに焦点を移せる。
自分が相手に与えた不利益ではなく、自分が感じた不快感を中心に語れる。
自分の義務ではなく、自分の感情を前面に出せる。
これは楽です。
とても楽です。
だから、人はしばしば被害者ポジションに逃げ込みます。
本来は支払う側なのに、なぜか傷つけられた側として語る。
本来は説明すべき側なのに、なぜか攻撃された側として語る。
本来は自分の行動が問われているのに、なぜか相手の人格を問題にする。
こうなると、論点がずれていきます。
支払ったかどうか。
約束を守ったかどうか。
法的義務を果たしたかどうか。
本来の問題はそこです。
しかし、そこから逃げるために、話が道徳や感情へ広がっていく。
そして、最後にはこうなります。
あんな相手に払うなんて納得できない。
だから、自分は悪くない。
いや、そこは別です。
かなり別です。
所長がおやつを食べたかどうかを聞いているのに、
そもそも飼い主の目つきが厳しかった。
と言い出すようなものです。
それはそれで議論の余地があるかもしれません。
しかし、おやつの所在とは別問題です。
まとめ:嘘は、本人の中で物語になる
人は、嘘をつくことがあります。
しかし、本当に厄介なのは、その嘘が本人の中で物語になっていくことです。
自分は悪くない。
自分は仕方なくやった。
相手にも問題があった。
むしろ、自分こそ被害者である。
こうして、現実の意味づけが少しずつ組み替えられていく。
最初は言い訳だったものが、繰り返され、補強され、ラベルを貼られ、やがて本人にとっての「本当」のような顔をし始める。
LIAR GAMEが面白いのは、嘘を単なる情報戦として描くだけでなく、その嘘を守る人間の心理まで見せるところにあります。
では、現実でこういう物語に出会ったとき、こちらはどうすればよいのでしょうか。
相手の嘘を正面から責めるべきなのか。
相手の物語に怒鳴り返すべきなのか。
それとも、もっと別の対応があるのか。
次回は、現実の裁判や交渉の場面から、認知的不協和に巻き込まれない方法を考えます。
相手が物語で走っているときほど、こちらは記録で歩く。
このあたりが、かなり大事になります。
本ブログでは、人間関係や交渉に潜む構造を整理しています。相手の不合理な物語に巻き込まれず、説得を諦めて「司法の公の記録」へ目的を切り替えた過程と思考の記録、および実際の書面構成は、noteマガジンにまとめています。

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