自分で自分を英雄にする人々――映画『新聞記者』とジャーナリズムの自己陶酔

映画『新聞記者』が日本アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞したとき、私は暗澹たる気分になりました。

松坂桃李やシム・ウンギョンの演技を評価する人がいることは理解できます。俳優の演技と、作品が内包する思想は別の問題です。

しかし、作品全体を日本映画界が高く評価したとなると、話は違います。

この映画は、政府の不透明さを批判した政治映画というより、新聞記者という職業を「権力に立ち向かい、真実を守る最後の良心」として描いた自己賛歌に見えました。

新聞社を含む側が新聞記者を英雄として描き、それを周辺の業界が賞賛する。

私が不快だったのは、政権批判ではありません。

自分たちを最初から善の側に置き、自分たちの持つ権力だけは決して検証しない。その思い上がりです。

目次

最初から答えが決まっている

『新聞記者』の世界では、道徳的な配役が最初から決まっています。

政府は事実を隠す側。
内閣情報調査室は世論を操作する側。
新聞記者は危険を冒して真実を暴く側。

登場人物は苦悩し、葛藤しているように見えます。しかし、物語の善悪は一度も揺らぎません。

政府機関が秘密裏に進める計画は、十分な具体性や現実的な手続きを与えられないまま、「権力中枢の闇」として配置されます。

一方、新聞記者が何を根拠に疑い、どのように仮説を検証し、反対の可能性を排除したのかは、それほど厳密には描かれません。

観客に求められているのは、事実を吟味することではないのでしょう。

「権力は恐ろしい」
「記者は勇敢だ」

という結論に同意することです。

巨大な陰謀を題材にすること自体が悪いわけではありません。政治サスペンスなのですから、現実離れした設定があっても構わない。

問題は、陰謀を観客に信じさせるだけの論理を積み上げる代わりに、「政府は隠すものだ」「新聞記者は真実を暴くものだ」という作り手と観客の共通信仰に寄りかかっていることです。

これは政治サスペンスというより、陰謀論的な道徳劇です。

新聞社という権力だけが消えている

本当に新聞記者を題材にするなら、新聞社自身が持つ権力も描かなければならないはずです。

誰の発言を一面に載せるのか。
誰の失言を何日間追い続けるのか。
誰を悪役として社会に提示するのか。
どの事件を深掘りし、どの事件を短い続報だけで終わらせるのか。

新聞社は、単に事実を運搬する透明な管ではありません。

集めた情報を選別し、順序をつけ、見出しを与え、社会的な意味を作り出す巨大な編集権力です。

誤報もある。
取材対象者への加害もある。
記者クラブによる情報の囲い込みもある。
政治的、思想的な身内びいきもある。
報じないことによって、問題を自然消滅させる力もある。

それどころか、ある発言を社会全体が憤るべき大事件へと育て、別の発言を「本人が謝罪しました」の一言で終わらせることもできます。

何を報じるかだけではない。

何を大問題として長く記憶させ、何を短期間で忘れさせるか。

それを決める力も、報道機関は持っています。

ところが、『新聞記者』に新聞社の自己検証はほとんどありません。

政府の不透明さを告発する映画が、新聞社内部の不透明さには関心を示さない。

これほど都合のよい権力批判もないでしょう。

自分たちが見たい自画像

この映画の製作には、新聞社も名を連ねています。

新聞記者を主人公とする映画に新聞社が参加すること自体が、直ちに悪いわけではありません。

しかし、そこで描かれた新聞記者像があまりにも自己都合のよいものであれば、話は変わります。

権力に屈しない。
大衆の知らない真実を知っている。
危険を冒して社会へ知らせる。
民主主義を最後に守る存在である。

業界にとって、これほど気持ちのよい自画像はありません。

そして、その自画像を描いた映画が、日本の映画業界の最高賞を受ける。

『新聞記者』の受賞が示したのは、作品が現実の政治や報道を深く描いたことではありません。

「権力と闘う新聞記者」という古びた英雄像が、今なおこの界隈では有効だということです。

自分たちを英雄として描いた作品を、自分たちに近い人々が高く評価し、その受賞をもって作品の社会的価値を確認する。

閉じた円環です。

西山太吉という英雄

この自己神話は、『新聞記者』だけに表れたものではありません。

沖縄返還交渉をめぐる外務省秘密漏洩事件の西山太吉も、報道業界では長く「国家権力と闘った記者」として語られてきました。

もちろん、日本政府の説明には問題がありました。

原状回復補償費をめぐる処理は非公表とされ、後年まで政府が事実関係を認めなかったため、国民への責任ある説明が困難になりました。この点は批判されてよいでしょう。

しかし、西山が暴いたとされるものを、国家的な巨悪であるかのように扱うのは適切ではありません。

後年の外務省有識者委員会は、この了解を、正式な秘密協定という意味での「狭義の密約」ではなく、文書化されていない「広義の密約」と整理しました。

さらに、早期の沖縄返還を実現するため、日本政府が米国の厳しい財政要求を受け、細部よりも高度な政治判断を優先したことは十分理解できるとも述べています。

つまり、これは政治家が私腹を肥やした事件でも、贈収賄でも、国民に損害を与える目的で行われた秘密工作でもありません。

沖縄返還という大きな国益を実現する過程で生じた、外交上の妥協と不透明な処理です。

説明責任は問われるべきです。

しかし、それを「国家権力の巨大な犯罪」と呼び、暴いた記者を聖人に仕立てるほどの話ではありません。

外交交渉には、少なくとも一定期間、相手国との了解を秘匿しなければ成立しないものがあります。

外交上の秘密が存在することと、国家が違法行為を隠蔽することは同じではありません。

その区別を曖昧にし、「秘密があった。ゆえに国家は悪であり、それを入手した記者は正義である」と語るなら、思考としてあまりに単純です。

公益は記者だけの免罪符なのか

西山を擁護する人々は、しばしば「国民の知る権利」という公益を持ち出します。

重要な事実を国民に知らせるためであれば、通常なら問題になる取材手法にも一定の理解が必要だというわけです。

しかし、その論理を採るなら、政府側についても同じように考えなければなりません。

沖縄を早期に返還させるという国益のためであれば、外交交渉の一部を当面非公開にし、米国との妥協を成立させる必要があった。

少なくとも、その可能性を考慮しなければ、論理は整合しません。

ところが、西山英雄論では逆になります。

政府が国益のために秘密を守ることは「隠蔽」と呼ばれる。
記者が公益のために秘密を入手することは「勇気」と呼ばれる。

国家には公益による弁明を認めず、記者だけには公益を免罪符として与える。

それは倫理ではありません。

単なる身内びいきです。

しかも、具体的で直接的な実害を考えれば、西山の側に生じたものの方が明瞭です。

最高裁が認定したのは、女性事務官との関係によって形成された、要求を拒みにくい心理状態を利用し、秘密文書を繰り返し持ち出させたという行為でした。

一人の人間を情報入手の手段として扱い、刑事事件に巻き込んだ。

政府側に問われた中心が、外交上の秘密と説明の透明性であったのに対し、西山側には具体的な人間に対する加害がありました。

それでも、報道業界の物語では西山が英雄となり、女性事務官は英雄物語を邪魔する存在へと押しやられます。

密約とされたものの是非は、国益、外交交渉、国会への説明という複数の価値を比較しなければ論じられません。

一方、西山の行為によって傷つけられた人間は、抽象的な存在ではありません。

実在する一人の人間です。

それでもなお、西山の行為を「大義のため」と正当化し、政府側の事情だけは一切考慮しないのであれば、そこにあるのは普遍的な倫理ではありません。

ジャーナリストという職業への特別扱いです。

『運命の人』という物語の作り直し

その英雄化を象徴するのが、TBSのドラマ『運命の人』です。

西山をモデルにした主人公は、理想と信念によって国家権力の欺瞞を暴く、政治部のエース記者として描かれます。

主人公が追及される原因は「ほんのわずかな綻び」であり、権力はその隙を巧みに突く。主人公は傷つきながらも、不屈の精神で闘う人物として配置されます。

一方、女性事務官を扱った回には、

「“女”の復讐」
「暴走する女の執念」

という題が付けられました。

記者の加害性は、権力に狙われた英雄の小さな過ちへと薄められ、女性は感情によって事件を混乱させる存在に置き換えられる。

フィクションには脚色の自由があります。

しかし、どの事実を拡大し、どの加害を縮小し、誰を英雄として配置したかには、作り手の思想が表れます。

『運命の人』が行ったのは、事件の検証ではありません。

新聞記者という職業の自己弁護です。

国家の事情は「権力の論理」として退ける。
記者の事情は「真実を追う者の苦悩」として理解する。

女性の被害は物語の周縁へ追いやり、記者の名誉回復を物語の中心に置く。

この非対称性を、私は美しいとは思いません。

自衛官の家族として

ここで、個人的なことを書いておきます。

私の父は自衛官でした。

少し前、国権の最高機関である国会の委員会質疑の場で、自衛官という職業を選ぶことを、経済的劣位の帰結であるかのように断言した議員がいました。

自衛隊へ行くのは経済的に厳しい家庭の子どもであり、豊かな家庭の子どもは自衛官にはならない――おおむね、そのような趣旨の発言でした。

発言は即座に撤回され、本人は謝罪し、所属政党も処分を発表しました。

しかし、自衛官とその家族が受けた侮辱の重さに比べて、報道の持続は短く、掘り下げも浅いものでした。

何を根拠に、自衛官志望者の家庭環境をそのように断定したのか。
自衛官本人の志や職業への誇りを、なぜ経済事情だけで説明できると考えたのか。
元教員だったその議員は、自衛隊へ進んだかつての教え子を、実際にそのような目で見ていたのか。

本来なら、問うべきことはいくらでもあったはずです。

しかし、報道は発言、撤回、謝罪、党内処分という一連の手続きを伝えると、急速に静かになりました。

もし同等の侮辱が、報道業界が敵視する側の議員から発せられていたなら、同じ幕引きになっていたでしょうか。

謝罪したから終わり。
党が注意したから終わり。
役職を外れたから終わり。

その程度で報道は矛を収めたでしょうか。

「発言の根底に差別意識があるのではないか」
「議員としての資質が問われる」
「党代表の責任はどうなるのか」

そうした言葉を連日並べ、本人が議席を失うまで追及し続けなかったと、本当に言い切れるでしょうか。

その問いに正直に答えられる記者が、この業界にどれだけいるでしょうか。

私が問題にしているのは、自分の父親が侮辱されたから特別扱いを求めている、ということではありません。

むしろ逆です。

差別を許さないというのなら、自衛官への職業差別も同じ基準で扱うべきです。
人の尊厳を守るというのなら、自衛官とその家族の尊厳も例外にしてはならない。
政治家には説明責任があるというのなら、発言者がどの陣営に属するかによって、追及の強さを変えてはならない。

それができないのであれば、彼らが掲げる倫理は普遍的な倫理ではありません。

敵にだけ適用される、陣営の規律です。

最後の良心という病

『新聞記者』が気持ち悪いのは、政府批判をしているからではありません。

自分たちを権力の外側に置き、自分たちだけは真実と良心の側にいると信じる業界の自己認識が、そのまま映画になっているからです。

現実の報道でも、同じ構造が見えます。

自分たちが敵視する政治家の失言は、辞職するまで追い続ける。
一方、自分たちに近い側の職業差別発言は、謝罪と注意処分が出れば早々に終わらせる。

ある事故では責任者を連日追い回す。
別の事故では、自分たちが好意的に扱ってきた運動体との関係を深掘りしない。

物価上昇を報じるときには、スーパーの値札と「生活が苦しい」という街の声を並べ、経済全体の構造を説明したつもりになる。

賃金、雇用、需要、企業収益、名目と実質の違いは脇へ置かれる。

複雑な現実を説明するのではなく、

困窮する庶民。
無策な政府。
それを告発する報道。

という分かりやすい道徳劇へ加工する。

そして、その選別や単純化について説明を求められると、「報道価値の判断」で済ませます。

他人には説明責任を要求する。
自分たちの編集判断については説明責任を負わない。

それでもなお、自分たちは「権力を監視するジャーナリスト」であり、「社会の木鐸」であり、「民主主義を守る最後の砦」であると信じている。

本来、ジャーナリズムとは、真実を所有する仕事ではないはずです。

自分も誤るという前提に立ち、不完全な事実を慎重に積み上げ、判断材料を社会へ差し出す仕事だったはずです。

ところが、自分たちを「最後の良心」だと思った瞬間、記者は検証する者ではなく、説教する者になります。

取材される者は説明する側。
記者は説明を要求する側。
国民は教えられる側。

その配置を疑わなくなる。

巨大な影響力を持ちながら、自分たちを権力者だとは認識しない。

これほど危険な権力もありません。

自分で自分を英雄にする人々

映画『新聞記者』は、権力に立ち向かう勇気を描いた作品ではありません。

権力を持ちながら、自分たちだけは権力者ではないと思い込む人々が、自分たちを英雄として確認するために作った自己賛歌です。

西山太吉を英雄として描き直した『運命の人』も同じです。

国家には秘密を持つ資格を認めない。
記者には公益の名で他人を傷つける特権を認める。
他者の不透明さは追及する。
自分たちの不透明さは検証しない。
敵の失言は辞職まで追う。
身内の差別発言は謝罪で終わらせる。

そんなものはジャーナリズムの倫理ではありません。

ただの職業的自己愛です。

自分で自分を英雄として描き、自分たちに近い者同士で賞を贈り合い、それを社会的評価だと思い込む。

そして、自分たちの外にいる人間に向かって、正義や人権や説明責任を説く。

他人を裁く巨大な権力を持ちながら、自らを裁くことだけは拒む。

私は、その仕事を尊いとは思いません。

むしろ、賤しいと思います。


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この記事を書いた人

金融の現場で30年以上、貸す・回収する・法的手続を扱う側として働いてきた主任研究員。腑に落ちないことをそのままにできない性分。当研究所ではDr.ホワイト所長の監督のもと、制度・書面・権利回復に関する実務知識を発信しています。

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